つて同じものらしく推測せられるからである。若しさうすれば自然他のものも誤つてゐるのではないかと考へられぬことはない。兎も角史記とは傳來の相違といふことだけは疑なき所である。それから又星名が二十八宿整頓してゐないことも淮南子などゝ相違する點であるが、これも二十八宿説が起らぬ前に書かれたものとも考へることが出來るし、或は爾雅の筆者は星暦の專門家でなかつた爲めに疏略に流れたものとも考へることが出來るのである。猶最も著るしい相違のあるのは釋地に見えた九州である。其の書き方が初めの七州だけは禹貢若しくは周禮職方氏などゝ類似してゐるが、末の二州は河の南とか漢の南とかいふ書き方でなく、燕曰幽州、齊曰營州といふ樣な前の分と類しない書き方をしてゐる。齊曰營州といふのが最後に在ることを見ると、矢張り稷下の學問の殘※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]を擧げる輩が書いたらしく思はれるが、體裁の不揃なのは、地理の專家が書いたのでない爲かも知れない。要するに禹貢とか周禮職方氏とかと相違のあるのは、九州に關する傳來の相違であつて、これが殷の制であると郭璞以來解釋してゐるのは朱子の言ふ如く無意味なことで
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