があるが、夏の復祚に至つては諸家の爾雅に此言なく、郭璞の本のみ之あり、その郭璞も未見義所出と注してゐる位である。これらは皆三代を並べ稱する時代思想に依つたもので、其の中には強ひて三代を並べんが爲めに無理につけた名前もあることゝ思ふ。此の三代を並べ稱するのは、多分夏正といふものが暦法家に依つて考へられ、制度の沿革といふことが禮家に依つて考へられた時代、即ち戰國の初期の頃に出來た時代思想であらう。之に依つて推すと、經傳の中にある種々な制度の沿革を三代に割當る思想の根柢を見出すことが出來るのである。鄭玄なども經書を注する時に、古文の禮制と今文の禮制とが符合せない場合には、多くは今文のものを殷の禮であるとして解決した。然るに朱子は其點に就いて破綻を窺知し、語類に漢儒説禮制、有不合者、皆推之以爲商禮、此便是沒理會處、と言つてゐる。
 それから釋天釋地には他の經書若しくは他の書籍と一致しない説があるが、それは却て研究の手掛りとなる所のものである。例へば釋天にある歳陽の名は史記歴書のそれと一致しない。尤もこれは爾雅の方が多分誤であらうと思はれる。それは太歳在戊曰著雍、在己曰屠維の二つが字形の類似に依
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