揚雄の方言などゝ類似した所もあつて、益々その後世の附益たることを疑はしめるのである。然しそれでも履帝武敏、武迹也、敏拇也と解釋してゐるのを見ると、これは詩の大雅生民篇の解釋であるが、恐らく三家詩と一致するものであつたらしく、毛傳とは全く解釋を異にしてゐるのである。これらの證據から考へると、四庫全書提要に爾雅の出來たのを毛傳以後と考へてゐることが頗る薄弱になる。今日三家詩は傳つてゐないが、釋訓篇の存在することによつて、三家詩の序の體裁は大體斯くの如きものではなかつたらうかといふことが想像し得られるのである。毛傳は恐らく三家詩以後に其の體裁を學んで新らしく書かれたものであるかも知れない。
以上兎も角釋詁から釋訓に至る三篇は詩書の古い部分、若しくは古い傳の解釋といふべきものであつて、後に附益せられたと思はれるものでも、春秋公羊傳がそれに加つてゐる位の程度である。それから考へると、畢竟最初に出來た經書は詩書の大部分であつて、其次に春秋が出來たのであるらしい。而してそれは先づ齊の稷下の學問の起る前まで位の時代に出來たと推斷し得ると思ふ。
それから釋訓以下の各篇即ち釋親・釋宮・釋器・釋樂・釋天
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