の人の書風が、大師以前、奈良の朝に入つて居ると云ふことは、あまり時代が切迫して不思議なやうでありますが、遣唐使などが隨分往來して居りましたから、早く來て居つたものと見えまして、養※[#「盧+鳥」、第3水準1−94−73]《うがひ》徹定と云ふ人の舊藏で、今は西本願寺にある華嚴音義と云ふものは、日本で書いた字であると云ふことでありますが、其文字は、唐の初めの歐陽詢と云ふ有名な書家の書に似て居る。それで歐陽詢の書風が奈良の朝に傳はつて居つたと云ふことが分るのであります。それから歐陽詢の子に歐陽通と云ふ人がありますが、其の人の書と似た書を書いたものが、大阪の小川爲次郎と云ふ人の持つて居る金剛場陀羅尼と云ふ寫經があります。それから長谷寺にある千體佛の下に銘が彫つてあります。其の銘も歐陽通の字に似て居る。此の寫經なり銘文なりの出來た時代は、歐陽通の時代とは三四十年しか隔つて居りませぬが、既に日本に傳はつて居つたと云ふことが分ります。さう云ふ譯で日本には奈良の時代から初唐風の書が傳はつて居りました。けれども其の書風の段々傳はつて居る中で、特別に大師の書風と云ふものが、目立つて異つて居りますのは、唐の方に於きましても、向うでは盛唐と謂ふ、其の時分に書風の一大變革を起しました。顏眞卿と云ふ有名な人が出て、新らしい書風を出しました。是は谷本博士も阮元の南北書派の議論を引いて、研究せられました。其の議論に就いては私は餘り贊成をせぬ所もあり、又贊成をする所もありますけれども、南北の書派の議論は阮元の一家言で、私は全部贊成を致しませぬ。其の事に就いては私は大阪朝日新聞に、「北派の書論」として、是は弘法大師の研究とは何の關係も無いことでありますが、南北の書派の議論を申したことがありまして、必ずしも一々阮元の議論に贊成すると云ふ譯には參りませぬ。從つて谷本博士の考とは多少違ふ點はありますが、併し違ふ點はあつても、兎に角一致する。何人が研究しても恐らく一致すると云ふ點は、唐の代に南北の書派が有る無しに拘らず、一大變遷がある。それは顏眞卿、徐浩などゝ云ふ人が起つた結果であると云ふことで、是は疑ひのない事實であります。それで弘法大師が日本に於て從來の書風と異つた所の、一種の書風を書き出されて、一代の書風に大いなる影響を及ぼしたと云ふことは、顏眞卿、徐浩などの書風が影響したのであります。是は谷本博士の考も私の考も少しも違ひませぬ。兎に角さう云ふ書の方から申しましても、一代の風を變化させるだけの力量を有つて居られましたから、日本の書風も一變し、又大師の書風が後々の書風の元祖となりまして、日本では唐以來正統を受け繼いで、今日に至るまで、大師樣と言はれない他の派でも、多少大師の影響を受けぬものはありませぬから、日本の後々の書風に取つては、大變な影響を及ぼして居ると云ふことが言はれます。さう云ふことをザツと書いて置きましたので、それは別に不思議はありませぬ。今日でも同樣であつて、何人が研究しても同樣であると思ひます。所で其の中に一つの間違をしたのは、大師の事に就いては、大師は唐に居られた時に、韓方明と云ふ人に就いて、書法を研究されたと云ふことを古來言はれて居る。所が私はそれに就いて疑問を挾んで書いて置きました。それは韓方明と云ふ人には、授筆要説と云ふ本があつたさうです。今では書の事を書いたものゝ中に一部分が存して居るに過ぎませぬが、其の文を見ると、筆を持つのに雙苞と申しまして、二本の指を掛けて持つやうになつて居る。所で大師の執筆法、使筆法と云ふことを申しますが、大師は好んで指を一本掛けて持つ法を使はれた。二本掛けることもありますが、大師は是はいかぬとしてあります。一本掛ける方が運轉が自在であつて、宜いとしてあります。筆の持ち方などはいろ/\ありますので、非常に有名な人であつても、普通謂ふ規則には掛らない筆の持ち方をしても、大變な書の名人もあります。是は一本掛けるが宜いか、二本掛けるが宜いかと云ふのは、今日でも議論のあることで、二本掛けないと力が弱いとか云ふ者がありますが、大師のやうな旨い方は、一本掛ける方が便利であつたかも知れぬのであります。誰れでも字を書くには懸腕直筆と云うて、腕を上げて書くと云ふことは古來一定の法でありますが、腕を上げないでも書く人があります。蘇東坡などゝ云ふ人は不精な人であつて、腕を上げないで書いたと云ふことで、あれは間違つて居ると云ふものもあるが、あれだけ書ければ間違つて居つても結構であります。それで韓方明と云ふ人は二本掛けろと云うて教へて居る。大師は一本の方が宜いと云うて居られる。それであると韓方明から教へられたならば、直ぐ先生の説を打壞して、さう云ふ風に一本掛けると云ふことはをかしいと思ひますから、恐らく是は誤傳であらう。大師の性靈集にも韓方明からと云ふことは斷はつて居らぬ。書の旨い人から傳授を受けたと云ふことだけ書いてあつたのでありますが、韓方明と云ふ人から傳授を受けたと云ふことは信用が出來ぬと言つたのであります。所が是は私の疎漏でありまして、矢張り古來の傳説の方が宜いのでありますから、それで私の前説を取消すのであります。
それでは私にどう云ふ間違があるか、と云ふと、私が本を粗末に讀んだ御詫を致しますのでありますが、段々支那には王羲之など昔の書の旨い人から書の規則に就いて議論があります。さう云ふものを一通り見るに、書史會要などと云ふ本がありまして、書家の有名な人の傳記もあり、又書家の筆法のことも書いてありますが、それに韓方明の授筆要説が載つて居ります。凡そ書家が申します筆法には術語がありまして、例へば永字八法とか云つて、點を打つ所を側とか、撥ねる所を啄とか、上げる所を勒とか云ふ、それ/″\術語があります。其の術語は誰れでも一定して居るのではありませぬ。王羲之の術語は王羲之の術語、歐陽詢の術語は歐陽詢の術語、顏眞卿の術語は顏眞卿の術語と云ふやうに、各々違つた術語を以て説明して居ります。どう云ふ人がどう云ふ事を言つたかと云ふこと、他の人のどれに當るかと云ふことを調べるのは、骨の折れることでありますが、兎に角各々勝手な語を用ひて居ります。所が支那では韓方明の用ひました術語と能く合ふのがもう一つあります。それは南唐の李後主と云ふ人で、五代の末に今の南京に國を建てゝ居つた人がありました。其の人は書の上手な人でありましたが、其の筆法の術語が韓方明の術語に似て居る。韓方明の術語は四字しかありませぬ。李後主の術語は七字あります。兎に角類似した語を使つて居ります。即ち韓方明の術語は、一は『鉤』と云ふ字を使つて居る。それから『※[#「てへん+厭」、85−17]』と云ふ、『訐』と云ふ字、それから『送』の字を使つて居る。南唐の李後主は撥鐙法と云ふものを用ひる。撥鐙法と云ふのは燈心を掻立てる手つきを謂ふのだと云ふ説もあり、又鐙を蹈張る姿勢を謂ふのだと云ふ説もあり、隨分面倒なことでありますが、かういふ事は眞言宗の大學の教授をして居られる畠山八洲先生などがよく御承知でありますが、やかましい議論のある者であるが、要するに此の撥鐙法を七字で説明して居ります。其の中に※[#「てへん+厭」、86−3]の字もあり鉤の字もあり送の字もありますが、訐の字だけありませぬ。所で此の訐の字を筆法の術語として使つて居る人が其の外にあるかと云ふと、一人もありませぬ。所が妙なことには弘法大師だけが使つて居られるから不思議です。弘法大師の書訣、即ち執筆法使筆法と云ふ者の中に、斯う云ふことがあります。※[#「乙」の白抜き、86−6]斯う云ふものを書く時に、頭指で句し、大指で助けて末は停めて訐すとある。又※[#「弋」の第二画の白抜き、86−6]を書く時に大指、頭指(母指、人差指)の二つを掛けて、力のかぎり、引つ張つて勢を十分にして、留めて、而して後訐す。訐すと云ふのは詰り之を彈く。さうして機發の状の如くす。詰り機と云ふのは弩の機の外れる状のことであります。その外れるやうな勢ひでパツと撥ねるのだと云ふことを説明する所に『訐』の字を使つて居る。支那で書法をいろ/\説明した中には、この訐字を使つたのが、韓方明一人である。李後主はそれに代ふるに『掲』の字を使つて居る。即ち掲の字は同じ意味だからと云ふので使つて居る。けれども『訐』の字を書いたのは支那には韓方明の外ありませぬ。所が大師は同じ字を使つて居る。さうして見ると今日の所では『訐』の字一字で證明するのでありますが、大師の筆法は韓方明の筆法を受け繼がれたのであると云ふことは、是れで證據立てることが出來ます。それから單苞とか雙苞とか云ふことは、重んじないことはないのですが、蘇東坡のやうな普通の人の使はない筆法で、隨分立派な字を書くのでありますから、其の人の考へ次第で、いろ/\なやり方をしたもので、大師の方では執筆法使筆法と云つて持ち方使ひ方と云うて、韓方明から傳へられたのは、筆を使ふ法に遺つて居ると思ふのであります。それから今申しました※[#「てへん+厭」、86−17]、鉤、送と云ふ三つの韓方明が使つた術語を大師が使つて居られるか、又は『訐』の字だけを使つて居つて、其の外のものを使つて居られぬでは疑ひを存せねばならぬのでありますが、それはどうかと云ふと、皆明かに此等の術語を使つて居られます。『※[#「てへん+厭」、87−1]』の字は眞先に使筆法の一箇條に使つて居る。それから『鉤』の字は今申しました『訐』の字を使つてある前の箇條に使つて居る。さう云ふやうな譯であつて『送』と云ふ字は其代りになるやうな字を使つてある。『送』と云ふ字を明かに使つては居らぬが、兎に角韓方明の使つた四つの術語の中三つまでは明かに使つて居りますから、もう一つだけを使はないにしても、韓方明の法を大師が受けて居られると云ふことは、明かに分るのであります。斯う云ふ譯で、大師は韓方明の筆法を受繼がれて來たと云ふことは明かで、古來の傳説は貴いものであつて、私が本を能く讀まぬで彼是れ言つたのは分に過ぎたことで、申譯がないと思ひます。それであの『空海』と云ふ本を再版でもするならば、あの箇條を抹殺して、今日申上げたやうに書き直す積りであります。さう云ふ點は私の從來の研究の誤りでありますから、今日此の機會に其の事を發表いたして置きます。
この書法の事に就いては隨分研究された方があります。近頃では東京の『書苑』と云ふ雜誌に『入木道に於ける大師』と云ふ題で、友人の黒板博士がいろ/\載せて居ります。是は私の贊成する所もあり、贊成されぬ所もあります。併し書のことは筆もなしに空に私が御話をした所で、十分に分るものではありませぬから、是は今日唯だ韓方明と云ふ人の筆法を傳へられたと云ふ古來の傳説が確かであると云ふことだけを申上げて、其の他の書法に關することは、茲に申上げぬ積りであります。隨分宗内の御方でも斯う云ふ事に注意をされる方があると見えまして、蓮生觀善さんは高祖の書道について研究になつて居ります。私が遠慮なく申すと、贊成を致す所と贊成を致さぬ所とあります。それは此處で申上げることは御預かりと致します。それから殊に面白いのは、この長谷寶秀さんの『高祖の遺墨』と申しますもので、是は大師が書かれまして今日まで遺つて居る者の中で、どれだけが確かで、どれだけが不確かだと云ふ批評を載せてあります。是等は餘程宗内の御方の研究としては、えらいことであると思ひます。宗内の御方と云ふものは、隨分其の宗内で寶物とせられてあるものなどに對しては、十分に自由の研究と云ふものは出來にくいものでありますのに、此の長谷さんの研究は遠慮なく批評をされてあります。さうして其の批評は殆ど一々適中して居ると謂つても宜からうと思ふ次第で、是は僅かの短篇ではありますけれども、私は餘程此の研究には敬服いたして居ります。今は仁和寺に御所藏になつて居る『三十帖策子』と云ふ有名なものに就いても、黒板博士が意見を書いて居りますが、實はあの書の研究の始まつたのは、私と黒板君とが同時に仁和寺で拜見した時に、どれだけが大師の眞蹟であり、どれだけが外の人の
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