れども、皆劉善經の四聲指歸の中に當時皆引いてあつたと見えまして、それを大師が文鏡祕府論の第一卷の終りに引いて置かれた爲めに、其の當時の四聲の議論を明かに見ることが出來るやうになつて居ります。是等は大師が幸ひ之を採用して置かれたから、六朝時代、今から見ると千二三百年前の音の議論を、今日からして當時は斯う云ふものであつたと云ふことを明かに見ることが出來る次第であります。是等は大師の文鏡祕府論と云ふものがあるおかげでもつて、我々今日斯う云ふことの研究が出來るのであります。又王昌齡の詩格と云ふのは、是は前に谷本博士も御考證になりました通り、是は大師が性靈集の中に、この詩格に關する本が當時いろ/\あるけれども、近頃では此の王昌齡の詩格が大變流行るといふので、天子に其事を上表されて居るやうな譯で、其の當時大變流行つて居つたと云ふことが分ります。併し是等でも卷數などには相違がありまして、是は新唐書の藝文志の方では二卷として居りますが、性靈集には一卷としてある。又日本に傳はつて居る唐の才子傳と云ふものには一卷としてある。是は一卷と云ひ二卷と云ふのは、どうでも宜からうと思ひますが、古い本に一卷と書いてあると、實際それが後になつて二卷と書いて居つても、前の本は一卷であつたと云ふことが分りますので、斯う云ふ事から目録を大切に致します。斯の如き相違がありますが、是は新唐書の藝文志にも載つて居り、又唐の才子傳と云ふ本にも載つて居ります。それで王昌齡の詩格と云ふものは、大師が當時賞讚されたのみならず、其の當時一般の人にも賞讚せられて居つたものであると云ふことが分ります。此の王昌齡の詩格と云ふものは、此の文鏡祕府論の中にも段々『王が曰く』と云ふことが書いてあります。此の祕府論の外には王昌齡の詩格と云ふものは何處にも引いてありませぬ。全く大師の文鏡祕府論に依つて、此の本はどう云ふものであつたと云ふことを想像するより外ありませぬ。
 其の次には皎然、此の人の著述は新唐書の藝文志には詩式が五卷、それから詩評が三卷あるとしてありますが、今日では矢張り是も殆ど大部分は皆無くなつて居ります。今日でも此の皎然の詩式と云ふものは、僅かに一部分殘つて居りますけれども、是は乾隆年間に出來た四庫全書總目提要の解題に依つて見ても、今日の詩式は其の當時の詩式の儘でないと云ふことが明かであつて、極めて殘缺した小部分の本であると云ふことが分るのみならず、今日殘つて居る皎然の詩式には、大師が申します當時の詩の作法、即ちどう云ふ聲はどう云ふ所に用ひてはならぬと云ふやうな細かいことは一つも殘つて居らずして、大體の批評のやうなことばかり殘つて居る。それで皎然が書いた詩の作法は、矢張り文鏡祕府論の中に殘つて居る。それは皎然が詩議と云ふものやら、又いろ/\の批判をしたことを、大師は此の文鏡祕府論に引かれて居りますから、それで皎然の詩式の大要は、今日でも幾らか分るやうになつて居ります。
 其の次に申しますのは崔融と云ふ人の本でありますが、果して崔融かどうかと云ふことも實は明かには分りませぬ。併し大師の文鏡祕府論の中を繰つて見ると、其の中に崔融と云ふ人だらうと思ふことがあります。此人には唐朝新定詩體と云ふ著述があります。即ち唐の時に文官試驗をするのに、どう云ふ體でもつて詩を作らなければならぬと云ふ規則を著述したものであります。或は之を新定詩格とも書いて居ります。大師は矢張り文鏡祕府論の中に崔氏の唐朝新定詩體と云ふものを引いて居られます。さうして其の名目は隋書の經籍志にも、新唐書の藝文志にも、舊唐書の經籍志にも無いのが、日本國現在書目の中に殘つて居ります。併し唯だ本の名目があるだけで、崔融が作つたと云ふことは殘つて居りませぬ。大師の文鏡祕府論の中に崔氏とも書いてあるが、或る所には崔融とも書いてあるので、始めて是れが崔融の著述だと云ふことが分るのであります。詰り崔融が當時の詩の格式を著述したのでありますが、若し大師の文鏡祕府論が無かつたならば、其の人の名が分らぬ。よしんば現在書目で書名が分つても、誰れが作つたのか分らぬのであります。此の文鏡祕府論が今日殘つて居るが爲に、其の人の著述も分り、其の内容も分ることになつて居ります。
 其の次は元兢と云ふ人で、此人には、詩髓腦と云ふ著述が一卷あります。此の本も新唐書の目録にも、舊唐書の目録にもありませぬ。日本國現在書目だけに殘つて居る。是も矢張り元兢と云ふ人が作つたと云ふことは、明かに分らぬのでありますが、幸ひ文鏡祕府論の中に『右は元氏の髓腦に見えたり』と云ふことが書いてあるので、元兢と云ふ人の詩髓腦を書いたと云ふことが分つたり、又内容が分るのであります。
 つまり是等の本は皆其の當時大層必要な本として行はれて居つたのでありますが、若し文鏡祕府論がなかつたならば、悉く是等の本は絶滅して、今日は其の人の名も分らず、其の本の名も分らなくなつたのでありませう。然るに大師が文鏡祕府論の中に合せて一つに纏めて、是は誰某の議論、是は誰某の議論と云ふことを書いて置かれたので、是等の書籍の名も分り、著述者の名も分り、もう一つは唐の時代の詩の格式は如何なるものであつたかと云ふことも分るのであります。文官試驗としても大切な規則があり、又當時詩と云ふものは音樂に掛けても歌はれると云ふのは、どう云ふ法則で歌はれるかと云ふことは、今日大師の文鏡祕府論があつて、始めて分るのであります。支那人でも之を今日手掛りにするのであります。即ち其の手掛りは弘法大師の文鏡祕府論に依る外何の手掛りもありませぬ。此の點は文鏡祕府論の重大な價値のある點でありまして、千二三百年前の、重くるしく云へば詩の作り方、碎けて云へば其の當時之を俗歌俗謠と同樣、歌に唄つた音樂の仕方と云ふことが、文鏡祕府論で分るのであります。祕府論は僅に六册の本でありますが、非常に大切な本であると云ふことは、是れで御分りにならうと思ひます。
 勿論是は弘法大師が自ら序文の中に自分で御斷りになつたに就いて申しましたゞけで、其の外にも大師が引用された本があります。それは矢張り現在書目に出て居ります所の文筆式と云ふものであります。文筆式を文鏡祕府論の中に引いて居るのであります。
 それからして又茲に斯う云ふことがあります。是は今日でも殘つて居る本でありますが、今日殘つて居る本に就いてさへも、大師の本が大變に大切な役目をすると云ふ證據をもう一つ申します。唐の初めに殷※[#「王+番」、第4水準2−81−1]と云ふ人がありまして、其の人の著述に昔から其の當時までの詩を集めた河嶽英靈集と云ふ本があります。是は今日でも殘つて居りますけれども、其の河嶽英靈集の序文を大師が文鏡祕府論の四卷目に引用されて居る。所が今日殘つて居る序文と少しばかり違つて居つて、大師の引用されて居る方が文字が百何字か多いのであります。即ち今日殘つて居るのは、文鏡祕府論に引いた時よりは百幾字か失つて居るのであります。それで今日殘つて居る本でありましても、それはいかぬ本で、大師の見られたものは其の當時の元の儘の本であると云ふことが分ります。それから大師が此の序文を引いて居るのには、詩の數が二百七十五首あるとしてあります。所が現在傳はつて居る河嶽英靈集には、二百七十五を二百三十五と改めてある。それで其の數を當つたものがあります。當つて見ると二百二十八首しかなかつたと云ふ。さうして見ると大師が見られた本は二百七十五首と云ふ元の儘であるにも拘はらず、今日は其の中の五十首ばかりは失つて居ると云ふことが分ります。兎に角今日の河嶽英靈集は殘缺した本で、元の儘の本ではないと云ふことが分ります。是は唯だ一の篇序文を文鏡祕府論の中に引いて置かれた爲に、さう云ふ事が分ります。
 それからもう一つ斯う云ふ事があります。是は矢張り今日では本もまるで無くなつて居るのでありますが、前に申しました元兢と云ふ人に、詩髓腦の外に大切なものがあります。それは古今詩人秀句と云ふので、昔から當時までの人の旨い句を拔き出したものであります。それは新唐書の中に、元兢と云ふ人の古今詩人秀句と云ふものが二卷あると云ふことが載つて居ります。日本國現在書目にも其の書名は載つて居るが、今日は傳はつて居らぬ。處が大師の文鏡祕府論の中に、古今詩人秀句の序文だらうと云ふ非常に長いものが載つて居ります。それは上古から唐の初めまでの詩と云ふものを、一々批評した長いものが書いてある。それが此の文鏡祕府論の中に載つて居る。それで古今詩人秀句を作つた由來が分り、其の當時の議論が分るやうになつて居る。兎に角一篇の序文であるが、是等は大切なものであります。さう云ふものが悉く文鏡祕府論に依つて今日保存されるやうになつて居ります。
 それから詩の病のこと、即ち詩の作り方の病と申します。作り方の越度です。越度の箇條を段々擧げて居る。それに就いては他の本は八つの病を擧げて居るが、大師は二十九種の病を擧げて居られると云ふことは、谷本博士の講演の中にも其の事が研究されて居りますが、大師は詩の法に關する有らゆる本を見られたから、通常世の中では八病と稱へて居つたものを、二十一種も詩の法則を見出して、それを殘して置かれたと云ふことが分るのであります。是等は谷本博士も既に十分に講究して居られます。
 それから文鏡祕府論の一番終りに行つて、妙なことが書いてあります。それは帝徳録と云ふものであります。是は勿論文章の法則でもありませぬけれども、文章を作るに就いて、天子のことなどを書く時は、通例の人とは同じ言葉を使ひませぬ。御出掛けになることでも行幸と申しますとか、いろ/\天子に關する言辭と云ふものは、普通とは違つて居る。さう云ふ形容の言辭は支那では大切なことにして居ります。さう云ふ語類を集めたものが帝徳録と云ふのでありますが、其の帝徳録と云ふものは、日本國現在書目には二卷としてある。今日其の書籍はありませぬが、文鏡祕府論の終りの方に一册を占める位に書いてありますから、或は全部載つて居るのではないかと思ふ程であります。
 何かくだ/\しいことが長くなりますが、兎に角文鏡祕府論と云ふものは、ザツと申せば是れだけの價値がある。今日此の文鏡祕府論が殘つて居るに就いて、唐代の文學上の事を知るにどれだけの利益があるか、今日から昔のことを研究するに就いても、他に得られない材料を、此の一部の本に依つて、それだけの研究が出來ると云ふことを、私は今日御披露したいと思つて、それで此の事を申しました。
 私が改めて申上げるまでもなく、此本は眞言宗の御方が御骨折りで出來た弘法大師全集の中に入つて居るのでありますが、その新板本は幾部かの古寫本を以て、通行版本の文鏡祕府論と對照され、又あとから出來た文筆眼心抄とも校合されたと云ふことも拜見したのでありますが、それに就いて校合の不十分だと云ふことを思ふ所があります。是れ程の價値がある本であるとすれば、是は眞言宗の方のみならず、日本の文學を研究する人は必ず一度は之を見て、日本の文學なり支那の文學なりを研究するに重大な價値があると云ふことを知られることを希望するのでありますが、それに就て弘法大師全集本の校合の不十分だと云ふことを申すのは、甚だ恐縮ですが、御見落しになつて居ると云ふ例を一つ申しませう。此の本は詰り大師が亡くなられた後に、草稿だけが何處かに遺つて居つて、それから段々寫し傳へられたものでありませう。それは此の出版された本の中に、時々御草本と云ふことが書いてあります。即ち大師の御草稿本と云ふことであります。十四條八階などゝいふ條に、御草稿本には此があつて、朱を以て消してあると云ふことが斷はつてあります。けれども矢張り本文は消さずに此處は消した處だと云ふことまで丁寧に斷はつてありますから、此の本を出版する時にさう云ふ斷はりを附けましたか、此の本を出版する前に從來寫し傳へられる時に、御草稿本に依つてさう云ふ丁寧な校語を附けましたか、兎に角さう云ふ風に、弘法大師の御草稿本を自筆で消された所までも殘して、消してあると云ふことを斷はつて置いたといふことが分り
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