ませぬ。所がそれは支那では傳はつて居りませぬ。支那で現在傳はつて居る本と云ふと、宋の時に矢張り坊さんでありまして、冷齋夜話、是は能く人が知つて居る本でありますが、其の本を書いた坊さんがあります。それは洪覺範と云ふ坊さんで、其の人の書きました天廚禁臠と云ふ本がある。是も餘り人の見ない本でありますが、それに宋の時の詩の法則が書いてあります。所がそれはどれだけの役に立つかと云ふと、一方詩と云ふものは、宋の時には既に音樂に掛りませぬのです。唐の時までは音樂に掛つて、歌ふことが出來た詩が、宋の時には既に音樂に掛らぬやうになつて居る。それで其の時にありました法則と云ふものは、是は音樂に掛るだけの價値のある法則ではありませぬ。それ以前の法則と云ふものは、支那には一つも殘つて居らぬ。支那は詩の本國でありますが、唐以前並に唐の時の詩の法則を書いたものは一つも殘つて居りませぬ。所が文鏡祕府論がある爲に、それが分るのであります。
 文鏡祕府論に引いてある本は、上は梁の沈約の本から、下は唐の時の本まで引いてある。それで又それ等の本を調べるに就いては、私共の專門の學問をする者は、いろ/\調べる道具があります。それは妙なものでありまして、大師がさう云ふ風に珍重して用ひられた本は、其の當時にはそれではどれだけにそれが用ひられて居つたかと云ふことを知らなければなりませぬ。大師が用ひられた本が、其の當時餘り行はれて居ないものであつたならば、今日殘つて居つても大切なものではありませぬが、大師の使つたものが其の當時にあつても重んぜられた本であつたとすれば、大師の文鏡祕府論と云ふものは、今日に於て非常な價値を有つて居るものと謂はねばなりませぬ。さう云ふ原本の價値を調べると云ふことになると、私共のやうな專門のことを致します者には、いろ/\調べ方があります。それは大體どう云ふものがあるかと云ふことは、今日でも分ります。それで實は斯う云ふ事を知らぬと云ふと、折角文鏡祕府論と云ふものゝ珍本だと云ふことは知つても、存外本當の價値を發揮し得ずに仕舞ふことがあります。それは既にさう云ふ例が實際あるのであります。此の文鏡祕府論と云ふものは珍本であつて、唐の時の詩文の法則を書いたものであると云ふことを注意したのは、勿論日本でも注意して居る人が無いではありませぬけれども、是は支那人が矢張り注意いたして居る。支那人で明治十三四年の頃からして明治十七八年頃まで東京の支那の公使館に來て居つた男で、楊守敬と云ふ人があります。此の人は今でも支那に居ります。先頃支那に騷亂のあつた時、武昌に居つたのが、今は避難して上海に居ると云ふことでありますが、今は七十幾歳かの老人であります。其の人が注意を致して、自分で著はした日本訪書志と云ふものに書いてあります。谷本博士も其の事を仰つしやつて居られますが、兎に角注意して居ることは事實でありますが、楊守敬も其の當時綿密に讀んだかどうか分りませぬが、兎に角珍本であつて、是は唐の時の詩の法則を知るには、大變貴重なものであると云ふことを知つて居るに拘はらず、其の法則と云ふものは、細々しいことばかりを書いてあつて、重大なことではないと云ふことを言つて居る。兎に角極めて細かな規則を規定してあつて、さうして何處にどう云ふ字を餘り入れてはいけないとか、どう云ふ字を入れゝば宜いとか云ふことを言つてありますが、管々しい細かいことには相違ないが、之を詰らぬことゝは言はれない。唐の時には現に詩の規則と云ふものは、さう云ふやうにありまして、其の規則にあるものは採られる。規則にないことは採られぬ。採る採らぬと唯だ申しては分りませぬが、詰り唐の時には詩でもつて文官試驗を致しました。即ち試驗の重もなる科目の中に詩があつたのであります。それで文官試驗に應ずる爲には、細かしい詩の規則を知らなければならぬ。一字の置き處が間違つても、一字の聲が間違つても、詩は落第を致します。それで當時の人は其の細かしい規則を記憶しなければならぬ。隨分厄介なことで、是は日本でも其の儘採り用ひました。日本でも大學の文章博士と云ふものになる爲には、矢張り支那と同樣に詩の試驗をして、一字でも聲が間違ふと試驗は落第を致します。それで其の時代には一字でも半句でも詰りさう云ふ規則と云ふものが非常に大切なものであつた。併しそれを皆研究して居つた。細かしい規則でありますけれども、それを知らぬと云ふと、當時の試驗の模樣も分らず、又當時の詩の作り方も分らぬのであります。詰りそれ程其の當時に於ては貴重なものであつた。それで管々しいことだからと云うて、又今日から見て餘り役に立たぬからと云うて、其の當時それ程に重んじて、一國の秀才を試驗をするのに用ひた規則を、唯だ詰らないものと一と口に言つて仕舞ふべきものではなからうと思ふ。楊守敬などは今日の支那に生れて、詰り當時の試驗と云ふものは、どう云ふものであつて、どれだけ規則が重きを爲したかと云ふことを十分に知りませぬから、それで唯だこんな管々しいことを澤山書いてあると云ふやうに言つて居りますけれども、詰り其の時勢から申しますと、さう云ふ規則と云ふものが、既にそれだけ大切なものである。
 所で其の規則に關係した種々の書籍の中に於て、大師が茲に採用された本は、それではどれだけの價値があるかと云ふことになります。さう云ふ事になりますと、是は又當時のいろ/\の書籍を調べることに就いて溯らなければならぬ。それには又道具があるのであります。支那では代々歴史を編纂します。支那は革命の國でありまして、天子の血統が時々變りますから、天子の血統が變りますと、前の代の歴史を編纂します。其の編纂する時には、大抵昔から前の代まで保存されて居つた書籍の目録を作ることになつて居ります。是は面白いことであります。それで唐の時代には其の前の隋の代の歴史を作つて居る。其の時に隋書の中に昔から隋の時まで行はれて居つた本の目録があります。それは隋書の經籍志と申します。經籍を記録したと云ふ意味でありますが、それには上古から隋代まで行はれて居つて、隋代まで保存されてあつた書籍の目録が附いて居る。それで詰り隋の時まで保存された本の目録と云ふものは、大抵一通り分ります。勿論それは遺漏が無いことはありませぬ。それからして其の次の唐の代に實際行はれて居つた書籍の目録と云ふものは、唐が亡びてから作つた唐書と云ふ歴史に載つて居る。是は二通りありまして、新唐書、舊唐書と申しますが、舊唐書と云ふものには矢張り隋書と同樣に經籍志と云ふものがあります。新唐書には、藝文志となつて居ります。詰り上古からして唐の代まで殘つて居つた本の目録と云ふものは、經籍志なり藝文志なりに載つて居ります。其の目録に載つて居る本は、詰り相當に勢力のあつた本と云ふことが明かに分ります。それで古い學問をする人、殊に古代の書籍のことを調べる學問をする人は、隋書の經籍志、舊唐書の經籍志、及び新唐書の藝文志などと云ふものを大切なものと致して、此の三つの目録に依つて、古い書籍を調べる例になつて居ります。それで詰り大師が茲に採用された書籍に於きましても、此の三つの目録で、其の當時行はれて居つたか、行はれなかつたかと云ふことを檢査するのが、古いものを調べる一つの法則になつて居ります。
 所がもう一つ斯う云ふ事があります。唐の代などゝ申しますと、二三百年繼續して居りまして、唐の代の歴史を作るのは、唐の代が亡んで仕舞つて、次の代に作るのである。それで唐の代には相當に盛んに行はれた書籍であつても、唐書と云ふ歴史を作る時は、どう云ふ譯か書籍が無くなつたものが隨分尠からぬものである。さう云ふやうに唐の代にあつた本でも、唐書の中に載つて居らぬ本の研究をするのには、又どうかしてしなければならぬことになつて居る。それで支那でもいろ/\方法がありますが、日本ではさう云ふ事を調べるに都合の好い本があります。是は日本の本でありますが、支那人などに非常に大切にされるものであります。それは『日本國現在書目』と云ふ本であります。今日の現在書目ではありませぬ。是は平安朝の時に儒者の家柄でありました、南家の儒者の藤原佐世と云ふ人が作つたものであります。是はどう云ふ譯で作つたかと云ふと、日本では支那から段々澤山の書籍を輸入して、之を研究して居つた。日本では其の當時から非常に支那の學問が盛んでありました。所が嵯峨に冷然院と云ふものがあつた。冷然院とは今は『冷泉院』と書くが、昔は『冷然院』と書いて居つた。其處に澤山な書物があつたが、それが燒けた。現に此の現在書目には冷然院と書いたものを使つて居ります。所が冷然院が火災に罹つたのは、此の『然』と云ふ字は、下に四つ點が打つてあります。是は烈火と云うて火と云ふ字である。冷然院は下に火が附いて居るので燒けたと云ふので、それから後は冷泉院と改めたと云ふことであります。兎に角冷然院には澤山の本があつたが、平安朝の初めに火災に遭ひまして、大分本が燒けました。其の後に又段々本をいろ/\集めて、其の時に『日本國現在書目』といふ支那の書籍目録を作つたのが即ち是れであります。是は即ち唐の末頃の時に出來ましたのでありますから、唐の末頃までに日本國に傳はつた書籍で、其の時に日本に現在あつた書籍は、是に載つて居るから分ります。それで支那人も此の日本國現在書目を、隋書の經籍志とか、新唐書の藝文志とか、或は舊唐書の經籍志とかに對照致しまして、其の中に拔けて居るものが、此の日本國現在書目に載つて居ります。即ち新唐書なり舊唐書なりを作る時に、既に無くなつて仕舞つた本が是れに載つて居ります。幸に日本には此の書目があるので、唐代の當時どう云ふ本があつたか、弘法大師などが世の中に存生せられた時にはどう云ふ本が實際行はれて居つたかと云ふことを知るには、日本國現在書目を見れば分るのであつて、是は今日大變大切な本であります。
 所で元へ戻つて弘法大師が文鏡祕府論を作られるに就いて採用された本は、それ等の目録に載つて居るかどうか、それが載つて居れば、是は少しも疑ひのない立派な本だと云ふことは明かなわけで、斯う云ふ事は極めて現金なものであります。總て皆載つて居る。それで一番最初に申しました四聲のことを發明した沈約の四聲に關する本といふものは、それは元と一卷ありまして、それが即ち隋書經籍志に載つて居る。又沈約と云ふ名は出て居りませぬが、是は日本國現在書目にも勿論載つて居る。それから其の次に申しました劉善經と云ふ人の四聲指歸と云ふ本であります。四聲指歸と云ふ本は、是は隋書經籍志にも載つて居れば、日本國現在書目にも載つて居ります。さうして殊に大師は此の本は餘程丁寧に見られもし、又御好きでもあつたものと見えまして、文鏡祕府論の卷一の終りに、四聲論と云ふことが載つて居ります。是は紙數が六七枚ありますが、それは殆ど劉善經の四聲指歸から全部拔書きをされたと思はれるほど、悉く茲に其の文を引いてある。是は四聲指歸だと云ふことは御斷りも何もありませぬが、四聲論の中に『經案ずるに』と書いてある。劉善經の一番下の經の字であつて、是は劉善經の著述から採つたと云ふことは明かに分ります。大師は劉善經の本は御好きであり、又必要な本であると云ふことを知つて居られたと見えて、澤山拔書きをされて居ります。それで四聲指歸と云ふ本は、今日は天にも地にも殘つて居りませぬ。幸ひに大師が此處に六枚なり七枚なりを其の儘採つて居られたから、此の四聲指歸に依つて六朝時代の四聲に關する議論の大體を知ることが出來るのであります。兎に角一番最初に四聲を發明して、それが詩の規則になると云ふ時までには、いろ/\の議論がありました。沈約はそれが必要として論ずる。又それはいかぬと云うて反駁する人も當時にあつた。當時支那は南朝と北朝と分れて居つて、沈約は南朝の人である。所が北朝の方にも相當の學者があつて、反對をしたものがある。甄思伯などゝ云ふ人は、當時有名なもので、反對をして居る。又當時沈約と同じやうな考をもつて、四聲の議論をした人が幾人もある。それ等の書籍と云ふものは、一部分ではありますけ
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