思はれるほど、悉く茲に其の文を引いてある。是は四聲指歸だと云ふことは御斷りも何もありませぬが、四聲論の中に『經案ずるに』と書いてある。劉善經の一番下の經の字であつて、是は劉善經の著述から採つたと云ふことは明かに分ります。大師は劉善經の本は御好きであり、又必要な本であると云ふことを知つて居られたと見えて、澤山拔書きをされて居ります。それで四聲指歸と云ふ本は、今日は天にも地にも殘つて居りませぬ。幸ひに大師が此處に六枚なり七枚なりを其の儘採つて居られたから、此の四聲指歸に依つて六朝時代の四聲に關する議論の大體を知ることが出來るのであります。兎に角一番最初に四聲を發明して、それが詩の規則になると云ふ時までには、いろ/\の議論がありました。沈約はそれが必要として論ずる。又それはいかぬと云うて反駁する人も當時にあつた。當時支那は南朝と北朝と分れて居つて、沈約は南朝の人である。所が北朝の方にも相當の學者があつて、反對をしたものがある。甄思伯などゝ云ふ人は、當時有名なもので、反對をして居る。又當時沈約と同じやうな考をもつて、四聲の議論をした人が幾人もある。それ等の書籍と云ふものは、一部分ではありますけ
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