からと云ふことは斷はつて居らぬ。書の旨い人から傳授を受けたと云ふことだけ書いてあつたのでありますが、韓方明と云ふ人から傳授を受けたと云ふことは信用が出來ぬと言つたのであります。所が是は私の疎漏でありまして、矢張り古來の傳説の方が宜いのでありますから、それで私の前説を取消すのであります。
 それでは私にどう云ふ間違があるか、と云ふと、私が本を粗末に讀んだ御詫を致しますのでありますが、段々支那には王羲之など昔の書の旨い人から書の規則に就いて議論があります。さう云ふものを一通り見るに、書史會要などと云ふ本がありまして、書家の有名な人の傳記もあり、又書家の筆法のことも書いてありますが、それに韓方明の授筆要説が載つて居ります。凡そ書家が申します筆法には術語がありまして、例へば永字八法とか云つて、點を打つ所を側とか、撥ねる所を啄とか、上げる所を勒とか云ふ、それ/″\術語があります。其の術語は誰れでも一定して居るのではありませぬ。王羲之の術語は王羲之の術語、歐陽詢の術語は歐陽詢の術語、顏眞卿の術語は顏眞卿の術語と云ふやうに、各々違つた術語を以て説明して居ります。どう云ふ人がどう云ふ事を言つたかと云ふこと、他の人のどれに當るかと云ふことを調べるのは、骨の折れることでありますが、兎に角各々勝手な語を用ひて居ります。所が支那では韓方明の用ひました術語と能く合ふのがもう一つあります。それは南唐の李後主と云ふ人で、五代の末に今の南京に國を建てゝ居つた人がありました。其の人は書の上手な人でありましたが、其の筆法の術語が韓方明の術語に似て居る。韓方明の術語は四字しかありませぬ。李後主の術語は七字あります。兎に角類似した語を使つて居ります。即ち韓方明の術語は、一は『鉤』と云ふ字を使つて居る。それから『※[#「てへん+厭」、85−17]』と云ふ、『訐』と云ふ字、それから『送』の字を使つて居る。南唐の李後主は撥鐙法と云ふものを用ひる。撥鐙法と云ふのは燈心を掻立てる手つきを謂ふのだと云ふ説もあり、又鐙を蹈張る姿勢を謂ふのだと云ふ説もあり、隨分面倒なことでありますが、かういふ事は眞言宗の大學の教授をして居られる畠山八洲先生などがよく御承知でありますが、やかましい議論のある者であるが、要するに此の撥鐙法を七字で説明して居ります。其の中に※[#「てへん+厭」、86−3]の字もあり鉤の字もあり送の字もありますが、訐の字だけありませぬ。所で此の訐の字を筆法の術語として使つて居る人が其の外にあるかと云ふと、一人もありませぬ。所が妙なことには弘法大師だけが使つて居られるから不思議です。弘法大師の書訣、即ち執筆法使筆法と云ふ者の中に、斯う云ふことがあります。※[#「乙」の白抜き、86−6]斯う云ふものを書く時に、頭指で句し、大指で助けて末は停めて訐すとある。又※[#「弋」の第二画の白抜き、86−6]を書く時に大指、頭指(母指、人差指)の二つを掛けて、力のかぎり、引つ張つて勢を十分にして、留めて、而して後訐す。訐すと云ふのは詰り之を彈く。さうして機發の状の如くす。詰り機と云ふのは弩の機の外れる状のことであります。その外れるやうな勢ひでパツと撥ねるのだと云ふことを説明する所に『訐』の字を使つて居る。支那で書法をいろ/\説明した中には、この訐字を使つたのが、韓方明一人である。李後主はそれに代ふるに『掲』の字を使つて居る。即ち掲の字は同じ意味だからと云ふので使つて居る。けれども『訐』の字を書いたのは支那には韓方明の外ありませぬ。所が大師は同じ字を使つて居る。さうして見ると今日の所では『訐』の字一字で證明するのでありますが、大師の筆法は韓方明の筆法を受け繼がれたのであると云ふことは、是れで證據立てることが出來ます。それから單苞とか雙苞とか云ふことは、重んじないことはないのですが、蘇東坡のやうな普通の人の使はない筆法で、隨分立派な字を書くのでありますから、其の人の考へ次第で、いろ/\なやり方をしたもので、大師の方では執筆法使筆法と云つて持ち方使ひ方と云うて、韓方明から傳へられたのは、筆を使ふ法に遺つて居ると思ふのであります。それから今申しました※[#「てへん+厭」、86−17]、鉤、送と云ふ三つの韓方明が使つた術語を大師が使つて居られるか、又は『訐』の字だけを使つて居つて、其の外のものを使つて居られぬでは疑ひを存せねばならぬのでありますが、それはどうかと云ふと、皆明かに此等の術語を使つて居られます。『※[#「てへん+厭」、87−1]』の字は眞先に使筆法の一箇條に使つて居る。それから『鉤』の字は今申しました『訐』の字を使つてある前の箇條に使つて居る。さう云ふやうな譯であつて『送』と云ふ字は其代りになるやうな字を使つてある。『送』と云ふ字を明かに使つては居らぬが、兎に角韓方明の使つた四つの術語
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