が隨分下手な篆書でありまして、弘法大師が書かれたならば、こんな下手な字は書かれませぬが、弘法大師の原本から幾度も傳寫をして、斯う云ふやうになつたので、隨分下手な字が書いてある。時としては誤字と思はるゝのもあります。之を正すのが面倒だといはれませうが、併し是は寫眞石版にでもして、其の儘に出せば格別面倒なことでもありませぬ。若し愈々是れが面倒だと云ふならば、此の篆書は有つても無くつても大したことはありませぬ。つまり篆隸萬象名義とありますが、大師の申します隸書と云ふのは、今の楷書のことであります。此の楷書の分だけを出版されても、十分に用は辨ずると思ひます。是は御骨折りついでゞありますから、間違つても何でも原本の儘でして貰ひたいのでありますが、それが出來ないならば、願はくは楷書の分だけでも願ひたいと思ひます。是は日本のみならず支那にも行はれることゝ思ひます。それから又西洋人にして東洋の事を研究する者にも、大變便利を與へることゝ思ひます。この弘法大師全集と云ふものは、餘程愼重な注意を拂つて出されたものであると思ひます。其の中で是は世の中でもつて弘法大師の御著述ではない、僞作であると云ふことを言はれて居るものも矢張り參考の爲め出版されて居ります。世の中で僞作と疑ひのある本までも出版される用意があるならば、僞作でない確かな本は、猶更出版して貰ひたいと思ひます。先づ篆隸萬象名義に關してはそれだけであります。
文學の事に關してはそんなものでありますが、もう一つは弘法大師の書のことを申上げたいと思ひます。弘法大師は能書の御方であつたと云ふことは、是は誰も知つて居ることでありますが、是は從來の私の研究の間違つて居つたことを御詫かた/″\申上げたいと思ふのであります。弘法大師は畫も描かれたり、又彫刻もされたと云ふことがありますが、近來では彫刻は嘘であると云ふ説もあり、或は是非弘法大師は彫刻をしなければならぬ筈である。眞言宗の規則の上にさう云ふ事があるから、必ずせられたと云ふ議論があるさうです。私は迚も其處までは研究が屆いては居りませぬ。さう云ふ議論の仲間入りをして、本當だとか嘘だとか云ふことを申上げる資格はありませぬから、それは御免を蒙つて、今日は弘法大師の書の事だけに就いて申上げたいと思ふのであります。
それはどう云ふ事かと申しますと、弘法大師の著述として傳はつて居る所の、是は全集の中にもあるが、弘法大師眞蹟書訣と云ふ本があります。是は江戸の屋代弘賢と云ふ人が是れに註釋などをして出版をして居りまして、それが能く行はれて居つたので、今度の全集にはそれから取つたと云ふことを斷はられて居りますが、兎に角昔から有名な本になつて居ります。所が此の本に就いて疑問を懷く人がありますが、私は兎に角弘法大師の著述であらうと云ふことは、疑問を懷いて居りませぬ。六朝から唐代まで掛けて、書法の事に就いて書いた本はいろ/\ありますが、其の書き方と云ふものは大體弘法大師眞蹟書訣と云ふ本の書き方に類似して居りまして、大師の書かれたのは唐代に書かれたから、さう云ふ類似があると云ふことを信じて居りますから、贋作でないと云ふことを信じて居ります。併し私に間違がありました。此の事に就いて茲に御斷はりをして置かなければならぬのは、私の友人に須藤南翠と云ふ有名な小説家があります。此の人は近年通俗讀本と云ふやうな體裁で『空海』と云ふ本、即ち弘法大師御一代の事を書いた本を著はした。それで私は懇意の間柄でありますから、何か序文らしいものを書いて呉れと云ふので、私は詳しい研究も何もありませぬが、唯だ書の事に就いてだけならば何か話をして、それを筆記さして上げませうと云ふことを約束しました。さうして其の書の事に就いての考を話した速記が『空海』と云ふ本の中に載つて居ります。それは此の眞蹟書訣一卷の研究ばかりではありませぬ。大師の書の事に就いて種々の研究と申しますか、私の考へた所を書いて置きましたので、つまり弘法大師の書の風と云ふものは、どう云ふ所から出て來たかと云ふことを申して居ります。大體に於て私は其の書風などのことに就いては、大した誤りはないと信じて居ります。弘法大師の書の風と云ふものは、日本に於て是は書風の革新時代に當つて居つて、其の當時日本で六朝、唐初あたりから傳はつて來て居つた書風とは、餘程一種異つた書風を書き出されたものであると云ふことを言つたのであります。日本へ支那から文字が傳はつて以來、隨分當時の名人には、支那人に比較して餘り劣らない名人がありました。古寫經などにもさう云ふ筆蹟があります、段々さう云ふものに就いて考へて見ると、六朝から唐の初めまでの書風と云ふものは、弘法大師以前には日本には隨分澤山入つて居る。六朝人の書風の入つたと云ふことは、格別怪しむに足らぬ譯でありますが、唐の初め
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