悉く是等の本は絶滅して、今日は其の人の名も分らず、其の本の名も分らなくなつたのでありませう。然るに大師が文鏡祕府論の中に合せて一つに纏めて、是は誰某の議論、是は誰某の議論と云ふことを書いて置かれたので、是等の書籍の名も分り、著述者の名も分り、もう一つは唐の時代の詩の格式は如何なるものであつたかと云ふことも分るのであります。文官試驗としても大切な規則があり、又當時詩と云ふものは音樂に掛けても歌はれると云ふのは、どう云ふ法則で歌はれるかと云ふことは、今日大師の文鏡祕府論があつて、始めて分るのであります。支那人でも之を今日手掛りにするのであります。即ち其の手掛りは弘法大師の文鏡祕府論に依る外何の手掛りもありませぬ。此の點は文鏡祕府論の重大な價値のある點でありまして、千二三百年前の、重くるしく云へば詩の作り方、碎けて云へば其の當時之を俗歌俗謠と同樣、歌に唄つた音樂の仕方と云ふことが、文鏡祕府論で分るのであります。祕府論は僅に六册の本でありますが、非常に大切な本であると云ふことは、是れで御分りにならうと思ひます。
 勿論是は弘法大師が自ら序文の中に自分で御斷りになつたに就いて申しましたゞけで、其の外にも大師が引用された本があります。それは矢張り現在書目に出て居ります所の文筆式と云ふものであります。文筆式を文鏡祕府論の中に引いて居るのであります。
 それからして又茲に斯う云ふことがあります。是は今日でも殘つて居る本でありますが、今日殘つて居る本に就いてさへも、大師の本が大變に大切な役目をすると云ふ證據をもう一つ申します。唐の初めに殷※[#「王+番」、第4水準2−81−1]と云ふ人がありまして、其の人の著述に昔から其の當時までの詩を集めた河嶽英靈集と云ふ本があります。是は今日でも殘つて居りますけれども、其の河嶽英靈集の序文を大師が文鏡祕府論の四卷目に引用されて居る。所が今日殘つて居る序文と少しばかり違つて居つて、大師の引用されて居る方が文字が百何字か多いのであります。即ち今日殘つて居るのは、文鏡祕府論に引いた時よりは百幾字か失つて居るのであります。それで今日殘つて居る本でありましても、それはいかぬ本で、大師の見られたものは其の當時の元の儘の本であると云ふことが分ります。それから大師が此の序文を引いて居るのには、詩の數が二百七十五首あるとしてあります。所が現在傳はつて居る河嶽英靈集には、二百七十五を二百三十五と改めてある。それで其の數を當つたものがあります。當つて見ると二百二十八首しかなかつたと云ふ。さうして見ると大師が見られた本は二百七十五首と云ふ元の儘であるにも拘はらず、今日は其の中の五十首ばかりは失つて居ると云ふことが分ります。兎に角今日の河嶽英靈集は殘缺した本で、元の儘の本ではないと云ふことが分ります。是は唯だ一の篇序文を文鏡祕府論の中に引いて置かれた爲に、さう云ふ事が分ります。
 それからもう一つ斯う云ふ事があります。是は矢張り今日では本もまるで無くなつて居るのでありますが、前に申しました元兢と云ふ人に、詩髓腦の外に大切なものがあります。それは古今詩人秀句と云ふので、昔から當時までの人の旨い句を拔き出したものであります。それは新唐書の中に、元兢と云ふ人の古今詩人秀句と云ふものが二卷あると云ふことが載つて居ります。日本國現在書目にも其の書名は載つて居るが、今日は傳はつて居らぬ。處が大師の文鏡祕府論の中に、古今詩人秀句の序文だらうと云ふ非常に長いものが載つて居ります。それは上古から唐の初めまでの詩と云ふものを、一々批評した長いものが書いてある。それが此の文鏡祕府論の中に載つて居る。それで古今詩人秀句を作つた由來が分り、其の當時の議論が分るやうになつて居る。兎に角一篇の序文であるが、是等は大切なものであります。さう云ふものが悉く文鏡祕府論に依つて今日保存されるやうになつて居ります。
 それから詩の病のこと、即ち詩の作り方の病と申します。作り方の越度です。越度の箇條を段々擧げて居る。それに就いては他の本は八つの病を擧げて居るが、大師は二十九種の病を擧げて居られると云ふことは、谷本博士の講演の中にも其の事が研究されて居りますが、大師は詩の法に關する有らゆる本を見られたから、通常世の中では八病と稱へて居つたものを、二十一種も詩の法則を見出して、それを殘して置かれたと云ふことが分るのであります。是等は谷本博士も既に十分に講究して居られます。
 それから文鏡祕府論の一番終りに行つて、妙なことが書いてあります。それは帝徳録と云ふものであります。是は勿論文章の法則でもありませぬけれども、文章を作るに就いて、天子のことなどを書く時は、通例の人とは同じ言葉を使ひませぬ。御出掛けになることでも行幸と申しますとか、いろ/\天子に關する言辭と云ふものは、普通とは
前へ 次へ
全13ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング