の中三つまでは明かに使つて居りますから、もう一つだけを使はないにしても、韓方明の法を大師が受けて居られると云ふことは、明かに分るのであります。斯う云ふ譯で、大師は韓方明の筆法を受繼がれて來たと云ふことは明かで、古來の傳説は貴いものであつて、私が本を能く讀まぬで彼是れ言つたのは分に過ぎたことで、申譯がないと思ひます。それであの『空海』と云ふ本を再版でもするならば、あの箇條を抹殺して、今日申上げたやうに書き直す積りであります。さう云ふ點は私の從來の研究の誤りでありますから、今日此の機會に其の事を發表いたして置きます。
 この書法の事に就いては隨分研究された方があります。近頃では東京の『書苑』と云ふ雜誌に『入木道に於ける大師』と云ふ題で、友人の黒板博士がいろ/\載せて居ります。是は私の贊成する所もあり、贊成されぬ所もあります。併し書のことは筆もなしに空に私が御話をした所で、十分に分るものではありませぬから、是は今日唯だ韓方明と云ふ人の筆法を傳へられたと云ふ古來の傳説が確かであると云ふことだけを申上げて、其の他の書法に關することは、茲に申上げぬ積りであります。隨分宗内の御方でも斯う云ふ事に注意をされる方があると見えまして、蓮生觀善さんは高祖の書道について研究になつて居ります。私が遠慮なく申すと、贊成を致す所と贊成を致さぬ所とあります。それは此處で申上げることは御預かりと致します。それから殊に面白いのは、この長谷寶秀さんの『高祖の遺墨』と申しますもので、是は大師が書かれまして今日まで遺つて居る者の中で、どれだけが確かで、どれだけが不確かだと云ふ批評を載せてあります。是等は餘程宗内の御方の研究としては、えらいことであると思ひます。宗内の御方と云ふものは、隨分其の宗内で寶物とせられてあるものなどに對しては、十分に自由の研究と云ふものは出來にくいものでありますのに、此の長谷さんの研究は遠慮なく批評をされてあります。さうして其の批評は殆ど一々適中して居ると謂つても宜からうと思ふ次第で、是は僅かの短篇ではありますけれども、私は餘程此の研究には敬服いたして居ります。今は仁和寺に御所藏になつて居る『三十帖策子』と云ふ有名なものに就いても、黒板博士が意見を書いて居りますが、實はあの書の研究の始まつたのは、私と黒板君とが同時に仁和寺で拜見した時に、どれだけが大師の眞蹟であり、どれだけが外の人の
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