違つて居る。さう云ふ形容の言辭は支那では大切なことにして居ります。さう云ふ語類を集めたものが帝徳録と云ふのでありますが、其の帝徳録と云ふものは、日本國現在書目には二卷としてある。今日其の書籍はありませぬが、文鏡祕府論の終りの方に一册を占める位に書いてありますから、或は全部載つて居るのではないかと思ふ程であります。
何かくだ/\しいことが長くなりますが、兎に角文鏡祕府論と云ふものは、ザツと申せば是れだけの價値がある。今日此の文鏡祕府論が殘つて居るに就いて、唐代の文學上の事を知るにどれだけの利益があるか、今日から昔のことを研究するに就いても、他に得られない材料を、此の一部の本に依つて、それだけの研究が出來ると云ふことを、私は今日御披露したいと思つて、それで此の事を申しました。
私が改めて申上げるまでもなく、此本は眞言宗の御方が御骨折りで出來た弘法大師全集の中に入つて居るのでありますが、その新板本は幾部かの古寫本を以て、通行版本の文鏡祕府論と對照され、又あとから出來た文筆眼心抄とも校合されたと云ふことも拜見したのでありますが、それに就いて校合の不十分だと云ふことを思ふ所があります。是れ程の價値がある本であるとすれば、是は眞言宗の方のみならず、日本の文學を研究する人は必ず一度は之を見て、日本の文學なり支那の文學なりを研究するに重大な價値があると云ふことを知られることを希望するのでありますが、それに就て弘法大師全集本の校合の不十分だと云ふことを申すのは、甚だ恐縮ですが、御見落しになつて居ると云ふ例を一つ申しませう。此の本は詰り大師が亡くなられた後に、草稿だけが何處かに遺つて居つて、それから段々寫し傳へられたものでありませう。それは此の出版された本の中に、時々御草本と云ふことが書いてあります。即ち大師の御草稿本と云ふことであります。十四條八階などゝいふ條に、御草稿本には此があつて、朱を以て消してあると云ふことが斷はつてあります。けれども矢張り本文は消さずに此處は消した處だと云ふことまで丁寧に斷はつてありますから、此の本を出版する時にさう云ふ斷はりを附けましたか、此の本を出版する前に從來寫し傳へられる時に、御草稿本に依つてさう云ふ丁寧な校語を附けましたか、兎に角さう云ふ風に、弘法大師の御草稿本を自筆で消された所までも殘して、消してあると云ふことを斷はつて置いたといふことが分り
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