年の頃からして明治十七八年頃まで東京の支那の公使館に來て居つた男で、楊守敬と云ふ人があります。此の人は今でも支那に居ります。先頃支那に騷亂のあつた時、武昌に居つたのが、今は避難して上海に居ると云ふことでありますが、今は七十幾歳かの老人であります。其の人が注意を致して、自分で著はした日本訪書志と云ふものに書いてあります。谷本博士も其の事を仰つしやつて居られますが、兎に角注意して居ることは事實でありますが、楊守敬も其の當時綿密に讀んだかどうか分りませぬが、兎に角珍本であつて、是は唐の時の詩の法則を知るには、大變貴重なものであると云ふことを知つて居るに拘はらず、其の法則と云ふものは、細々しいことばかりを書いてあつて、重大なことではないと云ふことを言つて居る。兎に角極めて細かな規則を規定してあつて、さうして何處にどう云ふ字を餘り入れてはいけないとか、どう云ふ字を入れゝば宜いとか云ふことを言つてありますが、管々しい細かいことには相違ないが、之を詰らぬことゝは言はれない。唐の時には現に詩の規則と云ふものは、さう云ふやうにありまして、其の規則にあるものは採られる。規則にないことは採られぬ。採る採らぬと唯だ申しては分りませぬが、詰り唐の時には詩でもつて文官試驗を致しました。即ち試驗の重もなる科目の中に詩があつたのであります。それで文官試驗に應ずる爲には、細かしい詩の規則を知らなければならぬ。一字の置き處が間違つても、一字の聲が間違つても、詩は落第を致します。それで當時の人は其の細かしい規則を記憶しなければならぬ。隨分厄介なことで、是は日本でも其の儘採り用ひました。日本でも大學の文章博士と云ふものになる爲には、矢張り支那と同樣に詩の試驗をして、一字でも聲が間違ふと試驗は落第を致します。それで其の時代には一字でも半句でも詰りさう云ふ規則と云ふものが非常に大切なものであつた。併しそれを皆研究して居つた。細かしい規則でありますけれども、それを知らぬと云ふと、當時の試驗の模樣も分らず、又當時の詩の作り方も分らぬのであります。詰りそれ程其の當時に於ては貴重なものであつた。それで管々しいことだからと云うて、又今日から見て餘り役に立たぬからと云うて、其の當時それ程に重んじて、一國の秀才を試驗をするのに用ひた規則を、唯だ詰らないものと一と口に言つて仕舞ふべきものではなからうと思ふ。楊守敬などは今日の
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