、其書今存するや否やを知らず。又其書は自ら筆を執りて記述したるにあらずして、其の弟子天心の筆記に成り、而も其の歿後に刊行せられたれば、往々筆者の誤と見ゆる處あり。(例へば支那の府志の中に雍州府志を擧げ、呂氏春秋の注者高誘を※[#「嫡−女」、第4水準2−4−4]誘と記せるが如し)時として著者の意見にも如何はしく思はるゝ節もなきにあらざれども、要するに其の人に絶せる炯眼を具して、博覽の餘に自然に著述源流の學を、髣髴として把捉し得たる者なることは、疑ふべくもなし。
今その書中、緊要の章句を少しく抄録せんに、云く、
[#ここから2字下げ]
一切の書を見るには先づ題號を解するを簡要とす次には其の書の部類を分別すべし
[#ここで字下げ終わり]
是れ目録學の綱領を摘出したる者なり。又云く、
[#ここから2字下げ]
史通。文心雕龍。筆叢は常に左右を離ことなかれ中にも筆叢は書の中の寶書也學者これを讀ば知識十倍すべし
[#ここで字下げ終わり]
支那にては明の中世、揚愼、陸儼等より以來、史通、文心雕龍二書を愛好する學者多くなり、最近、張之洞の※[#「車+鰌のつくり」、第3水準1−92−47]軒語等に至るまで、史學、文學の門徑として之を推稱したれども、我邦にて之に注意したる學者は幾んど之なきに、敬首和上のかくも此二書を推稱せるは、以て其の讀書眼の卓拔なるを見るべし。胡元瑞の筆叢は、其の書き方の氣のきゝたる割合に、内容に乏しき書なれども、其の博覽にして能く之を要約せることは、明代の一人ともいふべき人なれば、和上の如き頭腦の鋭敏なる人が之に惚れ込みたるも無理ならず。ともかく其の渉覽せる萬卷の書中より、此の三書を擧げて門弟等に示せるは、和上の非凡なる識見によるものといふべし。次に目録の專書としては、崇文總目、鄭樵の藝文略、焦弱侯の國史經籍志を擧げたり。而して佛教の目録に就ては
[#ここから2字下げ]
佛者一代藏經と名て其目録あり甚だ非なり予此れを正むと欲す
[#ここで字下げ終わり]
といはれたるは、その單に索引を主として著述流別の原則に合せざるを遺憾とせられし者ならん。又
[#ここから2字下げ]
中華の書には一種に頗る多板あり故に一板を見て即ち是とすべからず必ず善本を得て校合すべし
[#ここで字下げ終わり]
といはれ、既に校勘學の必要を説かれたり。尤も校勘學に於ては、儒家に於て徂徠門下に當時
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング