てこれを定めるかといふことは、それは少し歴史の專門の方に渉りまして、今日はそれを一々申上げるわけには參りませぬが、兎に角私共が信じて居る近代といふものゝ内容がどういふものか、それは支那に限りませぬ、日本でも或はヨーロッパあたりでも同樣でありますが、近代といふものゝ内容に是非なければならぬ條件がどういふものか、それを考へぬと、支那の近代と一口に申しましても、近代といふ意味が十分に分らぬと思ふ。
二
その事を先づ第一に申したいと思ふのでありますが、その近代の内容の中、一つは平民發展の時代、これはヨーロッパあたりにしますと、斯ういふやうに歴史を考へることは、何でもないことでありますが、支那の近代がどういふわけで一體平民發展時代になつて居るかといふことは、容易に分り易い問題ではありませぬ。支那の平民發展時代と申しましても、平民に參政權が出來たといふわけではありませぬ。今日でもそれが確實にあるわけでありませぬから、況や以前に於て平民が參政權を有つたといふ時代があつたわけではない。それで近代が平民發展時代といふことはどういふわけかといふことを先づ第一に考へて見なければなら
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