人が一生食ふことになつて、それから先何を要求するかといふと、學問とか文學とかで名を遺すことであります。古代より近代ほど官吏の作つた詩文集が非常に多い。漢の時代に名宦であつた人に詩文集などは殆んどないのでありますが、宋以後の人で苟くも有名な官吏をして居つた人に詩文集のない人は少ない。その中にはつまらない者もありますけれども、今日傳つて居る詩文集で、官吏をして居ない人の詩文集は至つて少ない。さういふことで、支那人は官吏をするが爲めに官吏をして居るのでなくて、それは生活を保證する丈けにして、餘暇を得て何か世に殘る著述をしようといふ、それが官吏の目的なのであります。それだから隨分惡官吏でありまして、むやみに租税に附けかけをしたり、懷を肥す者もありますが、それで立派な著述をしようといふ心掛の人がある。我々の尊敬して居る學者でありますが、王鳴盛といふ人が清朝の時代にありまして、その人は官吏をして居るときは餘程取り込みの盛んな人であつた。この人は何でも金を貯めなければならぬと考へて、金持の家に行くと、何か門口で物を取込む手つきをする。是は金持の氣といふものがあるので、それを自分に取込むと金が出來るといふことを信じて頻りにそれをやつたといふ。その人が言ふのには、官吏で以て善い官吏とか、惡い官吏とかいふやうなことは一時の事である、末代に殘る善い著述をすれば、官吏で惡いことをしたのも帳消しになると言つた。それが近代の支那人の官吏根性であります。
 さういふ風で、實際政治に携はる官吏が既に官吏を以て終生の目的として居らぬ。それで官吏自身が政治といふものを重要のものと思つて居らぬ。其の外にも例がありますが、それだけでも近代の政治の重要性が減衰して居ることが分ります。
 先づ此の二つが近代といふことの内容といつても宜いかと思ひます。

          四

 それでは愈々近代の生活要素といふものは、どういふものから出來て居るかといふことを申します。
 第一 は平民時代の生活の新しい樣式の發生に就て申します。その平民時代の平民の生活新樣式の主なるものはどうかといふと、大衆に共通する生活であります。大衆に共通する生活をする爲に、天性のある者、特殊性のある者が壓迫されることが著しくなります。それが大衆の向上する所からだん/″\出て來るわけであります。これが平民時代の新しい樣式の出て來る所以であ
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