政治とは全く別物で、周代の封建制度とも關係がなく、一種特別のものである。此時代の支那の貴族は、制度として天子から領土人民を與へられたといふのではなく、其家柄が自然に地方の名望家として永續したる關係から生じたるもので、所謂郡望なるものゝ本體がこれである。それ等の家柄は皆系譜を重んじ、其ために當時系譜學が盛んになつた位である。現に存在する諸書の中でも、唐書の宰相世系表は即ち其有樣を示したもの、又、李延壽の南北史の中には、朝代に拘らず各家の人を祖先から子孫まで續けて纏まれる傳を書いたから、人のために家傳を作つた體裁になつたといふ非難を受けたが、これは南北朝時代の實際状態が無意識の裡に歴史の上に現れたのである。
かくの如き名族は、當時の政治上の位置から殆ど超越して居る。即ち當時の政治は貴族全體の專有ともいふべきものであつて、貴族でなければ高い官職に就く事が出來なかつたが、しかし第一流の貴族は必ず天子宰相になるとも限らない。ことに天子の位置は尤も特別のものにて、これは實力あるものゝ手に歸したるが、天子になつても其家柄は第一流の貴族となるとは限らない。唐太宗が天子になれるとき、貴族の系譜を調べさ
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