かゝる場合なかりしために、君主は臣民全體の代表者にあらずして、夫自身が絶對權力の主體となつた。しかし兎も角、君主の位置は貴族時代よりは甚だ安全となり、從て廢立も容易に行はれず、弑逆も殆んどなくなつた事は宋以後の歴史は其然るを證明する。尤も元代のみは頗る異例がある。これは蒙古文化の程度によるので、蒙古の文化は支那の同時代に比較すると甚しく遲れて、却て支那の上古時代と同程度であるのに、支那を征服せるがために、突然に近世的の國家組織の上に君臨したのであるから、其帝室には依然として貴族政治の形骸が殘つて居り、民政の方のみが近世的色彩になつたから、一種の矛盾した状態をあらはしたのである。
 貴族政治の時代には、貴族が權力を握る習慣であるから、隋の文帝・唐の太宗の如き英主が出で、制度の上に於ては貴族の權力を認めぬ事にしても、實際の政治には尚其形式が殘つて、政治は貴族との協議體となつた。勿論この協議體は代議政治ではない。
 唐代に於ける政治上の重要機關は三つあつた。曰く尚書省、曰く中書省、曰く門下省である。その中で中書省は天子の祕書官で、詔勅命令の案を立て、臣下の上奏に對して批答を與へることになつて居るが、この詔勅が確定するまでには門下省の同意を必要とする。門下省は封駁の權を有して、若し中書省の案文が不當と認むるときには、これを駁撃し、これを封還することも出來る。そこで中書と門下とが政事堂で協議して決定する事となる。尚書省はこの決定を受取つて執行する職務である。中書省は天子を代表し、門下省は官吏の輿論、即ち貴族の輿論を代表する形式になつて居るのではあるが、勿論、中書・門下・尚書三省ともに大官は皆貴族の出身であるので、貴族は天子の命令に絶對に服從したのではない。夫故に天子が臣下の上奏に對する批答なども、極めて友誼的で、決して命令的でない。然るに明清時代になりては、批答は全く從僕などに對すると同樣、ぞんざいな言葉遣ひで命令的となり、封駁の權は宋以後益々衰へ、明清に在りては殆んどなくなつた。
 かくの如き變化の結果、宰相の位置は天子を輔佐するものでなくして、殆ど祕書官同樣となりたるが、尚宋代にては唐代の遺風も存在して、宰相は相當の權力を有したるも、明以後には全く宰相の官を置かぬ事になり、事實宰相の仕事をとれるものは殿閣大學士であつて、これは官職の性質としては天子の祕書役、代筆の役で、天
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング