せたが、第一流の家柄は北方では博陵の崔氏、范陽の盧氏などにて、太宗の家は隴西の李氏で三流に位するといふことなりしも、此家柄番附は、天子の威力でもこれを變更する事が出來なかつた。南朝に於ても王氏、謝氏などが天子の家柄よりも遙に重んぜられた。是等は皆同階級の貴族の間で結婚をなし、それ等の團體が社會の中心を形成して、最もよき官職は皆此仲間の占むる所となつた。
 この貴族政治は唐末より五代までの過渡期に廢頽して、これに代れるものが君主獨裁政治である。貴族廢頽の結果、君主の位置と人民とが近接し來りて、高い官職につくのにも家柄としての特權がなくなり、全く天子の權力によりて任命せらるゝ事となつた。この制度は宋以後漸次發達して、明清時代は獨裁政治の完全なる形式をつくることゝなり、國家に於ける凡ての權力の根本は天子一人これを有して、他の如何なる大官も全權を有する事なく、君主は決して如何なる官吏にも其職務の全權を委任せず、從て官吏は其職務について完全なる責任を負ふ事なくして、君主一人がこれを負擔する事となつた。
 この二種の政治状態を比較すると、貴族政治時代に於ける君主の位置は、時として實力あるものが階級を超越して占むる事ありても、既に君主となれば貴族階級中の一の機關たる事を免るゝ事が出來ない。即ち君主は貴族階級の共有物で、その政治は貴族の特權を認めた上に實行し得るのであつて、一人で絶對の權力を有することは出來ない。孟子は嘗て卿に異姓の卿と、貴戚の卿とあつて、後者は君主に不都合あればこれを諫め、聽かざればこれを取り換へるといへる事があるが、かゝる事は上代のみならず、中世の貴族政治時代にも屡々實行された。君主は一族即ち外戚從僕までも含める一家の專有物で、從てこれ等一家の意に稱はないと廢立が行はれ、或は弑逆が行はれた。六朝より唐に至るまで、弑逆廢立の多いのは、かゝる事情によるので、この一家の事情は多數の庶民とは殆んど無關係であつた。庶民は國家の要素として何等の重きをなさず、政治とは沒交渉である。
 かくの如く君主は單に貴族の代表的位置に立つて居つたのは中世の状態なるが、近世に入りて其貴族が沒落すると、君主は直接に臣民全體に對する事となり、臣民全體の公の所有物で、貴族團體の私有物でなくなつた。かくして臣民全體が政治に關係する事となれば、君主は臣民全體の代表となるべき筈のやうであるが、支那には
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