まして非常に面白く思ふのであります。即ち足輕の事を説いて居る所に引きつづき、
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是はしかしながら武藝のすたるゝ所に、かゝる事は出來れり。名ある侍の戰ふべき所を、かれらにぬきゝせたるゆへなるべし。されば隨分の人の足輕の一矢に命をおとして、當座の恥辱のみならず、末代までの瑕瑾を殘せるたぐひもありとぞ聞えし。
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と斯ういふ事が書いてあります、其當時の武士といふものには優れたるものが無く、唯だ足輕が數が多いか腕つ節が強いかといふ事に依て無暗に跋扈し、さうして勢ひに任せて亂妨狼藉をしてゐたのであります。詰り武士がだん/\修養がなくなつて人材が乏しくなり、さうして一番階級の下な修養のない腕つ節の強い者が勢ひを得るやうになつて來たのであります。それを一條禪閤兼良なども當時さういふ風に感じて居たのであります。
足利時代は全く天才のなかつた時代であつたから、應仁以後百年間といふものは爭亂の收まる時期がなく、戰亂が相續いて居つたのですが、是は歴史上屡※[#二の字点、1−2−22]斯ういふ事があるものであります。支那でも唐の時代から五代の末頃迄がてうど斯ういふ時代で、恐らく今日の支那もさういふ風になつてゐると思ひます。今日の騷亂は大した騷亂でもないが少しも統一されないのは、個人のすぐれた能力を持つた人がないからで、夫でいつ迄も騷亂が收まらぬのであります、併し乍ら斯ういふ時代には時としてどうかすると最後に非常にすぐれた人が出て來るものであります。兎に角一條禪閤兼良といふ人は舊來の階級をやかましく言つて統一の出來て居つた時代から見るので、この足輕の亂妨がよほど心外に思はれたものと見えます。それで「左もこそ下剋上の世ならめ」と書いてゐますが、近頃どうかすると國史をやる人の間に、此の下剋上の意味を勘違ひして居る人があるやうで、それが教科書などにもその誤つた見方のままに書いてあるのがありますが、下剋上といふことを、足利の下に細川、畠山の管領が跋扈して居り、其細川の下に三好、三好の下に松永が跋扈するといふ風に、下の者が順々に上を抑へ付けて行くのを下剋上といふやうに考へるものがあります。無論それも下剋上であるには違ひありますまいが、一條禪閤兼良が感じた下剋上はそんな生温いものではありませぬ。世の中を一時に暗黒にして了はうといふ程の時代を直接に見て感じた下剋上であるから、それは單に足利の下に細川、細川の下に三好といふ風に順々に下の者が跋扈して行くといふやうな、そんな生温いことを考へて居つたのではありませぬ。最下級の者があらゆる古來の秩序を破壞する、もつと烈しい現象を、もつと/\深刻に考へて下剋上と言つたのであるが、此の事に限らず、日本の歴史家は深刻な事を平凡に解釋することが歴史家の職務であるやうに考へてゐるやうです(笑聲起る)。これらが他流試合で、又惡口を言ふと反動が怖しいからやめます(笑聲起る)。
所が一方には又下剋上――下の階級の方から此時代に對して考へる其感想を現はしたものがあるのであります。其事の載つて居る本は同じ時代の著述ではなく、もう少し後の時代のものでありませう、しかし其中に書いてあることは、同じ應仁頃の事として書いてあります。天文、永禄頃の本とかいふのに「塵塚《チリヅカ》物語」といふ本があります。其終りの處に山名宗全が或る大臣と面談したといふことが書いてありますが、是は大變面白いのです。山名宗全が應仁の亂の頃或る大臣家に參つてさうして亂世のため諸人が苦しむさまなど樣々物語りした其時に其大臣がいろ/\古い例を引出した。是はてうど一條禪閤兼良のやうな人でありませう。『さま/″\賢く申されけるに宗全は臆したる色もなく』あなたの言ふのは一應尤もであるが例を引かれるのはいけない、『例といふ文字をば向後時といふ文字にかへて御心得あるべし』といふ意味の事を言つて居ります。昔の事を例に言つてゐるが、例といふものは實際變つてゐるものである、例へば即位式は大極殿で執り行ふといふのが例だといふ事になつて居るが、大極殿がなくなると仕方なしに別殿で行ふ、別殿もなくなると又何か其時々に相應した處で行はなければならぬ。それで大法不易の政道は例を引いてもいゝが、時々に變り、時に應じてやるべきものは例にしてはいけない、時を知らないからいけないといふことを書いてあります。
是は事實あつたことかどうか分りませぬで……或は嘘の話かも知れませぬ、假令嘘でも構ひませぬ、當時の人にさういふ考があつたといふことは是で分ります。即ち從來の嚴重なる階級制度に對し、制度といふものは時勢に連れて變化すべきものだといふ考のあつた事が分るのであります。唯山名宗全に言はしたのがよほど面白いのであつて、宗全が更に言ふことに、自分如き匹夫があなたの所へ來て斯うして話しするといふ事も例のないことだが、今日はそれが出來るではないか、それが時なるべしと言つてゐるのでありまして、そこらが餘程皮肉に出來て居つて、當時の状態をよく現はして居ります。是は樵談治要と共に當時の状態相應の政治に對する意見であつて、さういふ意見が當時の人にあつた事が分るのであります。
それで此の塵塚物語といふ本にかいてある事は本當か嘘か分らないですが、餘程面白い事の澤山ある本でありまして、足利時代殊に應仁前後に非常に博奕が流行つたといふ事を書いてある所など餘程面白く、近頃の支那を其儘見るやうであります。今でこそ日本は支那などに對して非常に秩序の立つた偉い立派な國のやうに言つて居りますが、矢張り時に依ては支那同樣の事が隨分あつたのであります。此の文中、博奕の事の中にも、當時足利時代に有名な徳政――即ち何年間に一遍凡ての貸借を帳消にしてしまふといふ政治の行はれた事なども書いてありますが、兎に角非常に博奕が盛んでありました。始めの間は武士《サムラヒ》など自分の甲冑を質に置いてやつたものです、それでどうかすると甲だけを持つて冑を持たないといふやうな武士もあつて、隨分見つともない話であつたが、戰爭で高名をする者は却てそのやうな者に多かつたといつてある。それが後に應仁の亂の時分になると、自分のものを質において博奕をやるのでは詰らないといふので、他《ヒト》の財産を賭けて博奕をやるやうになりました。どこそこの寺には大變寶物があるらしいからそれを賭けてやるといふのでありまして、是はよほど進歩した博奕のやり方であります(笑聲起る)。この位共産主義のいゝ例はないと思ひます。共産主義もこゝまで徹底しなければ駄目です(笑聲起る)。斯ういふ時代といふものは、全く下剋上と同時に他《ヒト》のもの自分のものゝ見境がつかないといふ面白い現象が起つて居るといふことが分るのであります。
詰らない事を言つて居ると話が長くなりますが、そんな事が當時の状態であつたのでありまして、是が當時の文化にどういふ關係があつたかと言ひまするに、一條禪閤兼良といふ人は殊に舊い文化の滅亡に就て非常に慨嘆した人であります。それは一條家には非常に澤山の書籍記録などがありましたが、應仁の亂の時に、自分の家などは勿論燒かれるといふことを前から覺悟して居りましたから、自分が京都を立退いて暫く隱れる時に、それは覺悟の前で立退き、藏だけは番人を置いて立ち退いたのです。所が果して大變な騷動になりました。それで屋敷位はどうしても燒かれるだらうが藏だけは殘るだらうと思つて居りました所が、一條家の家來共の智慧は禪閤以上に出て、藏にはいゝ物があるに違ひないといふので皆引出して、書物が貴いとか舊記が大事だといふやうな事にはお構ひなく、さういふものを皆どうかしてしまつたのです。當時の記録によれば、一條家の文書七百合が街路に散亂したといふことで、それを非常に悲んだといふことでありますが、樵談治要の著述などもさういふ所から來てゐるのでありませう。又斯ういふ人の事でありますから、古い文化を如何にしてか後に傳へたいといふ考が、燒き打ちをされてなくなる際においてもあつたに違ひないのであります。
それからやはり群書類從の中にあります本で、兼良の作の「小夜の寢覺」といふものがあります、其當時現存の書籍が出來上る迄の來歴を書いたものでありますが、それには昔の修業の仕方をも書いてあります、詰り昔の文化を傳へる爲に書いたのであります。殊に私の感じたのは樂人豐原統秋といふ人の書いた體源抄といふ本でありまして、此の體源抄の體源は其の横に豐原の文字のある文字を用ゐて書名の中に豐原といふことを現はしたのであります。此家は代々笙の家でありまして、今でも其末孫が豐《ブンノ》某と言つて在りますが、此の豐原といふ人が體源抄を書いた序文を見ますと、其當時の戰爭が應仁元年正月上御靈の戰爭の頃からだん/\烈しくなつて來て、さうして天子も室町の足利の第に行幸される、それは足利に行幸されたと申しまするが、實は細川勝元が何かの時に自分の都合のために臨時行幸を仰いで取り込めておいたのであります。さういふ事からして非常に世の中が騷動になつて、樂人の祕傳などを傳へることが却々難儀でありましたが、其間において兎に角自分で非常に難儀して先祖代々の祕傳を傳へたといふことがそれに委しく書いてあります。さうして體源抄といふのはよほど大部の著述でありますけれども、それが單に音樂の祕傳を傳へるといふことばかりでなしに、何んでも自分が覺えただけのことは皆書込んで居るのであります。そして此人は法華經の信者で何かといふとすぐ南無妙法蓮華經を書いて居ります。今日から見れば殆ど著述の體裁をなさぬと言つてもいゝ位でありますけれども、實際應仁の亂に會つた人の考から見ると、少しでも昔から傳はつたものは、何んでものちに傳へたいといふ所から何も彼も書き込んだものと思はれます。兎に角騷亂の時に方つて古代文化の一端でも後に傳へたいといふ考が當時の人にあつたのでありませう。
尤も其後になりまして後陽成天皇の時、即ち豐臣秀吉の時代になつて天下が治まるといふと、舊儀復興が盛んになりまして、さういふ僅かに傳へられて居つた本などを根據として凡ての朝廷の儀式を復興しました。勿論昔のやうに完全に復古は出來ないけれども、是等の事は皆斯ういふ人が骨折つて古代の文化を殘さうといふ努力をした效能が現はれたのであります。
併し當時の全體の傾きはそれと違ひまして、凡ての文化といふものが大體特別な階級即ち當時迄政治に勢力のあつた貴族の階級から一般の階級に普及するといふのが、當時の實際の模樣であつたと思ひます。それは一つは自然に已むを得ざる所から來た點もありますが、それらの事を一二の例を擧げて申しますると、まづ伊勢の大神宮の維持法であります。伊勢の大神宮といふものは御承知の通り日本天子の宗廟でありまして大變大切なものであるから、昔から伊勢の大神宮と言へば一般の人民には參拜を許されてなかつたのであります、それで延暦の儀式帳などにも、人民の拜禮のことはないといふことであります。此時分には朝廷より十分の御保護があつて、神宮に仕ふる家々も何不足なく暮して居つたのですが、鎌倉足利と引き續き朝廷がだん/″\衰微して來るといふと、伊勢の大神宮にいろ/\差上げる貢物がだん/″\出來なくなつて來たのです、さうして最も烈しい打撃は應仁の亂の前後から起て來たのであります。所がさういふ時には又其時相應な智慧が出るものでありまして、京都吉田山へ伊勢の大神宮が特別に飛移られたといふことを、吉田の神主が唱へ出した。うまい處へ付け込んだもので、さうすると朝廷でも大いに負擔を免れて結構な事であるから、已に之に從はんとせられたが、伊勢の禰宜たちからやかましく訴訟して、飛移り一件は消滅したけれども、此頃から神宮は益々維持費を得ることが困難になつて來たので、そこで考へられたのが御師《オシ》等が維持策としての伊勢の講中と唱へるものであります。即ち神宮へ參詣する講であります。是は平田篤胤などの國學者の説では、佛家の方の講のしかたを應用して伊勢の講中が出來たのだといふことを言つて居りますが多分さうでせう。其講中が出來ると、朝
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