が足利時代まで其話が傳はつたといふのであるか、どうも疑はしいと思ひました。是は南北朝時代から新注が流行つて大學中庸といふものが禮記の中から特別に拔き出されて尊重されて、それが清原家の學問にも響いて來た結果、かういふ話が出來たのではなからうかと思ひまして、なくなられた田中義成さんに申しました所が、是は贋せ物だ、當時の人の作り話しだらうといふ田中さんの考でありました。足利時代から大學、中庸に限つて新注を採用したのであります。詰り漢學の上に新思想が行はれて、經書の學問は清原家では古注を用ゐるのが古來の仕來りであるけれども、大學、中庸だけは新注を採用するといふ事になつて、今迄の主義を改めるのに何か理窟がなければならぬために、頼業が斯ういふことを言ひ出したといふ話が作り出されたのだらうかと疑はれます。所で此新注は支那でもさうであるが、殊に日本に於て學問を平民に及ぼした有力なる學派であります。さういふ事が足利時代になりまして漢學の上に於ても貴族から平民に移るべき段階を此時代において開いて居つたのであります。
 かくの如く應仁亂の前後は、單に足輕が跋扈して暴力を揮ふといふばかりでなく、思想の上に於て
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