した。即ち其當時最も盛んに研究された――研究されたといふよりは寧ろ信仰の目的になつた本は何かといふと、日本紀の神代の卷であります。一條禪閤兼良の日本紀纂疏といふのも神代の卷だけの註を書いたもので、是は有ゆる和漢の例を引いて非常な博識を以て書いて居りますが、其目的はやはり日本紀の神代の卷を尊い經典にするため書いたのであります。此傾きは必ずしも一條禪閤兼良から來た譯ではなく、もう少し前からでありますが、それはやはり蒙古襲來などがよほど大きな影響を持つてゐるやうであります。そしてその蒙古襲來の時、國難が救はれたのは全く神の力だといふ考が一般に起つて來ましたが、南北朝頃から北畠親房、忌部正通など「日本は神國なり」といふやうなことを云ひ出しました。其後徳川の時代になつて林道春が「神社考」を書いた時にも、日本は神國なりと言ふことを書いて居ります。さういふ譯で應仁の亂頃にも外に對しては南北朝以來の思想が續いて來て居りまして、日本紀の神代の卷は立派な經典となり、支那の四書五經といふやうな考になりました。是は日本といふ國が如何なる騷亂の間に年が經ちましても、皇室はちやんと存在して、いつ迄も日本の眞の状態
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