しはさんでも差支ない。もしそれがさうでないとすれば、その證據を示す爲めに材料の蒐集法、其の得たる材料等を、或る時期において時々これを開放し、展覽して其の公平な態度を示すべきである。
自分は單にかういふ事をあり得べき事として想像するのみでない。多少自分は明白な證據を握つて居る。其一二を擧げるならば、一つは久邇宮家に關する事である。故の久邇宮朝彦親王即ち維新前に中川宮と稱せられた方は、孝明天皇の非常に御信任の厚かつた方であつて、京都守護職始末にあらはれて居るところでも、孝明天皇は屡※[#二の字点、「屡※」で「しばしば」、面区点番号1−2−22、161−13]宮に宸翰を賜つて「眞實の連枝と存ずる」と仰せられ、何もかも御相談になつた方で、其の當時からして屡※[#二の字点、「屡※」で「しばしば」、面区点番号1−2−22、161−14]中傷を試みた反對派があつたけれども、天皇は少しも御取上げにならなかつた。この親王が孝明天皇の崩御の後間もなく、一種の陰謀に傷つけられて謀叛の嫌疑といふことで廣島へ遷された。
これは眞實全く陰謀の毒手にかゝられたのであつて、當時薩長派の政府から親王謀叛の文書を持參
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