如き嚴めしき態度をとられて居ないで、親戚の長者などに對せられる樣な極めて親密な御扱ひ方であつて、時としては御好な刀劍を需めたいけれども金が無いからとて御無心遊ばされたといふことなども見えて居るが、すべて宸衷を包まれることなく御認めになつたものゝみである。其宸翰全部は明治天皇も一時お借り上げになつて御覽になり、十數通はこれを御手許にお留めになつて、其の寫を御返しになつたといふことであるが、自分が拜見した中で最も重大なることは、矢張り山川浩氏の「守護職始末」にあると同樣な七卿の參朝を止められた事件であつて、當時の朝廷における過激な議論に對して非常に宸襟を惱ませられて、これを斥け得たので御安心になつたといふことを御認めになつたものであつた。自分は其の以前から「守護職始末」を讀んで居つたので、會津家に有する宸翰と、これ等の新しき材料とは全く一致するものであることを發見して、當時の事情に關する眞相を知り得たのである。
 恐らく斯の如き有力な材料は、他の堂上華族などにも所藏して居られる方があるかも知れぬ。唯維新以來當時の勝利者の勢焔が當るべからざるものである爲に、其の儘に握り潰されて居るものが多からう。今日になつて見れば當時幕府に味方した人も、長州並に浪人等を引き立てた人も、皆同じく朝廷の爲め國家の爲めを思うて爲たことであらうから、少しも憚る所なく材料を提供すべきであると思ふ。殊に維新史料編纂局においては、從來若しそれらの材料を調べずにあつたならば、今日においては努めて反薩長派の材料をも蒐集して、公平な態度を執らなければならぬと思ふ。其の材料によつて歴史家が如何に判斷するかは各※[#二の字点、「各※」で「おのおの」、面区点番号1−2−22、163−5]の觀方であつて、從來の如く薩長が連合して革命を起した事に味方する人もあらうし、又公武一體で穩和な改革を企てた方に贊成する人もあらう。要するに材料の取扱ひ方だけは、今日においては井上侯爵中心時代を全く放れる必要がある。
(大正十一年八月談話筆記)[#地より1字上げ]



底本:「内藤湖南全集 第九巻」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:談話筆記
   1922(大正11)年8月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月28日公開
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