考へついた以外の點で少しばかり易に關する疑問を提出したのであるが、一體諸の經書は、多く秦漢の間になつて、今日の形に纏まつたので、其中で春秋公羊傳のみは、何休の解詁に、明白に口授相傳、至漢公羊氏及弟子胡母生等、乃始記於竹帛(隱二年)といつてあるが、これが本音《ほんね》である。されば章學誠が文史通義に、
  商瞿受易於夫子、其後五傳而至田何、施孟梁邱、皆田何之弟子也、然自田何而上、未嘗有書、則三家之易、著於藝文者、皆悉本於田何以上口耳之學也、
といつてあるのも、商瞿以來の傳授が信ぜられぬことの外、即ち田何が始めて竹帛に著はしたといふことは、恐らく事實とするを得べく、少くとも其時までは易の内容にも變化の起り得ることが容易なものと考へられるのである。それ故筮の起原は或は遠き殷代の巫に在りとし、禮運に孔子が殷道を觀んと欲して宋に之て坤乾を得たりとあるのが、多少の據りどころがあるものとしても、それが今日の周易になるには、絶えず變化し、而かも文化の急激に發達した戰國時代に於て、最も多く變化を受けたものと考ふべきではあるまいか。朱子の語類に
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六十四卦、只是上經説得齊整、下經便亂董董地、繋辭也如此、只是上繋好看、下繋[#「繋」は底本では「經」]便沒理會、論語後十篇亦然、孟子末後、却※[#「戔+りつとう」、よみは「せん」、第3水準1−14−63、47−6]地好、然而如那般以追蠡樣説話也不可曉、
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とあるのが、究竟するに先秦古書を精讀した人の僞りなき告白と看るべき者であるかも知れぬ。
(大正十二年十二月發行「支那學」第三卷第七號)[#地より1字上げ]



底本:「内藤湖南全集 第七巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月25日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「研幾小録」弘文堂
   1928(昭和3)年4月発行
初出:「支那學」
   1923(大正12)年12月発行、第三巻第七号
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年9月24日公開
2003年5月25日修正
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