「筮」「八」「口」、45−11]の一々を其字義によつて解釋してゐるが、此説は近年孫詒讓によつて改正せられた。即ち孫詒讓の周禮正義には劉敞、陳祥道、薛季宣等の説に從ひ、九巫の巫を字の如く讀み、巫更以下を皆古への筮に精しき者九人の名とし、又その中の巫咸と巫易とを特に指摘して、巫咸は世本に見える作筮の巫咸であり、巫易は巫昜の誤で即ち楚辭招魂に見える巫陽であると考へたのである。これは洵に孫説の通りであつて、之によつて周禮若しくは説文の頃までは巫と筮との間に關係を明かに認めてゐたことが分る。それで予の考ふる所では本來筮なるものは巫の用ひた御籤の如きものであつて、委しく云ふと各々の卦に相當した御籤があつて、更に其の御籤の中で四種とか五種とかに分けられた小名があり、之を占はんとする者は其の御籤を引いてそれに出てくる幾つかの小名――それが即ち爻辭に相當するのである――に依つて巫から判斷して貰つたものであらうと思ふ。而して此の筮法は殷代の巫の職の貴かりし時は別として、周代以後は龜卜の如く天子や諸侯などの貴族階級の人の用ゐるものではなく、寧ろ一段低い階級の間に占ひの方法として用ゐられてゐたのであらう。所が春秋戰國以後下級民衆の發達につれて、民衆を相手とする此の筮法が漸次盛になり、其術を傳ふる者は之に種々故事を附會して以て自己の術を重からしめる爲めに、遂に左傳や國語に見えるが如き幾多の説話を作り出し、時としては爻辭の中にuの高宗とか箕子とか將た文王とかの事をさへ取入れるやうになつたのではあるまいか。朱子の語類には、凡爻中言人者、必是其人嘗占得此卦といひ、帝乙歸妹、箕子明夷、高宗伐鬼方の類を其例として擧げて居るが、少し穿ち過ぎて居るやうである。それから更に進んでは繋辭に見えるが如き數の思想が一方に生じてくると共に陰陽を基礎とした卦を以て其形を表はすことが始まり、遂にそれらが合して一の哲學的基礎を與へるやうになつたのではないかと思ふ。さう考へてくると自然彖傳象傳の如き恐らく最も夙く出來たと思はれる易の理論的説明が既に卦辭爻辭と必ずしも一致しないことも恠しむに足らなくなり、其上文言、繋辭、序卦などの如く、最後に易を纏めたものは呂氏春秋や、左傳、國語の纏まつた時よりも後であつて、尤も本來の易と相距ること遠いものとなつてゐるのであることも明白になると思ふ。
 以上予は歐陽修とか伊藤東涯とかの人々が
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