と建前が出来上っているようである、同じ芸術のうちでも、美術の方では特に声を大にして大衆美術だの純正美術だのという事を決して云わないが、日本の文芸だけがムキになってそれを強調している。
さて、そうなって見ると純文芸というのは一体何ものなのだ、大衆文芸とは何だ、これの定義から聞かなければなるまいが、分類はし強調はしているけれども定義としてはほとんど何物も無いのだ、ある一派の文士連が、そういう名と分類を都合上こしらえて、それを圧迫的に世間に受取らせようとする、人のいい世間は面食らいながら、それを押しいただいているという現状なのである。
しかし、折々はどうも、それだけでは済まされないという弱味が湧くと見え、その色分けや命名を試みて世間を煙に巻いたつもりでいる文士連の中から問わず語りに申訳のような言葉が洩《も》れて出て来る、その一つには「大衆文芸とは多数の為に書くもので純文芸とは自分の書きたいままを書く芸術である」と斯ういうことを云い出した者もある、これはまた随分あやふやな定義で、多数に読ませるつもりで書いた処で多数が読まなかった時は、どうなるのだ、また自分の書きたいところを書いた処で大多数にそれが読まれた時はどうなるのだ、またある者は「大衆文芸とは道徳性を含んだもので、純文芸とは道徳性を含まぬものだ」と放言したものもある、これも不見識千万のもので、徳川時代から勧善懲悪の型に入った文芸を少しばかり解放しようとした明治初期の一派文学者の口吻をそのまま今日へ持って来たもので、道徳性そのものが何であるかという深刻な観念の一向無い者の放言である、ダンテでも沙翁でもユーゴーでもトルストイでも、凡そ今日までの世界が持った最大級の文学は皆道徳性を含んでいるのみならず、それが作の全部の根幹を成していると見られる、右等の徒輩はこれ等不朽の作物を大衆文芸視して、それよりもズット堕落し腐敗してかつ規模の小さいモウパッサンとか、ワイルドとかいうやからを純文芸というものに見立てたいのであろうと思われる。
この点に於て、今日のジャーナリ文学というものが一般を毒し、智識階級の観念を乱していることは非常なもので、手も無く彼等の下司根性《げすこんじょう》から出でた空宣伝に乗ってしまっている、斯くて、今日一般が定義と検討とを別にして純文芸或いは大衆文芸の観念を丸呑みにしているのである。
更に、斯ういう文
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