であると慈眼房叡空は随喜して、法然房と号し、実名は最初の師源光の上の名と叡空の下の字をとって源空と名をつけられた。
こうして法然といい、源空という生涯を通じてのよび名を十八歳の時叡山の西塔黒谷の慈眼房叡空の庵に於てつけられたのである。
この叡空上人は大原の良忍上人《りょうにんしょうにん》の附属《ふぞく》円頓戒相承《えんどんかいそうじょう》の正統であって、瑜伽《ゆが》秘密の法に明かに当代に許された名師であった。
四
かくて法然は黒谷に蟄居《ちっきょ》の後は偏《ひとえ》に名利を捨て一向に出要を求めんと精進した。学問せんが為の学問でなく、確かに生死を離るべき道を求むるが為に学問した。一切経《いっさいきょう》を披《ひら》き閲《けみ》すること数遍に及び、自宗他宗の書物眼に当てないというものはなかった。
或時天台|智者大師《ちしゃだいし》の本意を探り、円頓一実の戒体《かいたい》に就て、師の慈眼房と話をした。慈眼房は、
「心が戒体じゃ」という議論をたてる。法然は、
「性無作《しょうむさ》の仮色《けしき》が戒体でございます」という議論を立て、両々相譲らず、永い間議論をしていた
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