という奴が来れば防ぐことは出来ないで、お前いつ迄もそうして強者顔《つわものがお》をして威張っていたからとて念仏の行者にはかなわないぞ。弥陀如来の本願で念仏するものは悪道に落されず迎えとられるのだ。念仏をすることは一騎当千の強者になるよりも豪《えら》いことだぞ。お前も軍《いく》さ人《びと》なんぞは早く止めて念仏をしろ念仏をしろ」
 といわれたのが頼綱の胆にそみていた。直実の奴うまく侍を卒業しやがったな。おれも負けるものかという気になって、大番勤仕《おおばんきんじ》の為に京都へ上った序《ついで》に、承元二年十一月八日のことであったが、法然を勝尾《かちお》の草庵に訪ねて念仏の教えを受け一向専修の行者になってしまった。
 法然が亡くなった後は善恵房《ぜんえぼう》を頼んでいたが、結縁《けちえん》の為めに四帖の疏の文字読みばかりを受け、遂に出家して実信房蓮生《じっしんぼうれんしょう》と号しその後夢に善光寺の本尊を感得したりなどして承元元年十一月十二日芽出度い往生をとげた。
 上野国の御家人薗田太郎成家は秀郷《ひでさと》将軍九代の孫、薗田次郎成基が嫡男《ちゃくなん》であるが、武勇の道に携わり、射※[
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