するに堪えている。早くこの書を写して末代にひろむべし」
 と云われたそうである。
 同年八月に法然の命を受けて、伊予に下りて又帰洛し一宗の奥を極め、元久元年八月上旬に吉水の禅室を辞して、鎮西の故郷に帰り、浄土宗を隆《さか》んにした。
 安貞二年の冬肥後国往生院で四十八日の念仏を修した時に、後の人の異義を戒めんが為に、一巻の書を著した。「末代念仏授手印《まつだいねんぶつじゅしゅいん》」といいよく法然相伝の義を伝えた。
 筑後の国高良山の麓に厨寺《くりやでら》という寺があった。聖光房がそこで一千日の如法念仏を修した処、八百日に及んだ頃、高良山の大衆《だいしゅ》が、「この山は真言の宗旨だ。この山の麓で専修念仏はけしからん。念仏の輩を追い出せ」という評議が決まったが、聖光房は心を決めて待ち構えていると、その翌日思いの外一山の大衆がいろいろの供物を捧げてやって来たというような話もある。
 筑後の国山本郷という処に善導寺という寺を建てたが後には改めて光明寺と名づけ一生ここで念仏伝道した。
 この人は毎日六巻の阿弥陀経、六時の礼讃時をたがえず、又六万遍の称名怠ることなく、初夜のつとめを終って一時ばか
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