いん》の御宇長承二年四月七日の午《うま》の正中に母の秦氏悩むことなくして男の子を生んだ。その時紫の雲が天にそびえ、邸のうち、家の西に元が二肢《ふたえだ》あって末が茂り、丈の高い椋《むく》の木があった。そこへ白幡《しらはた》が二旒《ふたなが》れ飛んで来て、その梢《こずえ》に懸った。鈴の音が天に響き、いろいろの光りが日に輝いたが、七日経つと天に昇って了った。見るもの聞く人、不思議の思いをなさないものはなかった。それからその木を両幡《ふたはた》の椋の木と名をつけた。年を経て傾き古くなったけれど、この椋の木は異香が常に薫じ、奇瑞《きずい》が絶ゆることがない。後の人この地を崇《あが》めて誕生寺と名づけ、影堂を造って念仏の道場とした。
生れた処の子供の名を勢至丸《せしまる》とつけた。竹馬の頃から性質が賢く、聖人の様である。ややもすれば西の方の壁に向っている癖《くせ》があった。天台大師の子供の時分の行状によく似ている。
父の時国の先祖をたずねると、仁明天皇《にんみょうてんのう》の御後、西三条右大臣(光公)の後胤式部太郎|源《みなもと》の年《とし》というものが陽明門で蔵人兼高《くろうどかねたか》と
前へ
次へ
全150ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング