は顕真座主のこの言葉を聞いて、
「人間というものは自分の知らないことには必ず疑心を起すものだ」
この言葉を又顕真座主に告げる者があった。そこで顕真が、「なる程そう云われて見ればそうだ。わしは今迄|顕密《けんみつ》の学問に稽古を努めたけれどもこれはまあ名利の為といってもよろしい。至心に浄土を志したということもないから道綽や善導の釈義も窺っているとはいえないのだ。法然房でなければこう云うことを云うてくれる者はない」と。それから百日の間大原に籠って浄土の書物を研究して後、さて自分は浄土の法門にも一通り通じたのである。もう一度お話をお聴きしたい。就ては自分一人で折角のお談義を聞くのも勿体ないから人を集めて見よう。
そこで大原の立禅寺《りゅうぜんじ》に法然上人を屈請《くっしょう》した。元の天台の座主顕真僧正は、この法門はわれ一人のみ聴聞すべきにあらずと云うて、諸方に触れをして南都北嶺の高僧達を招き集めることにした。文治二年秋の頃、顕真の請によって法然は大原へ出かけて行った。東大寺の大勧進俊乗坊重源が弟子三十余人をつれてそれに従った。顕真法師の方には門徒以下の碩学、ならびに大原の聖達《ひじりたち》が坐しつらねている。その他山門の衆徒をはじめ、見聞の人も少ない数ではなかった。論談往復すること一日一夜である。法然は、法相、三論、華厳、法華、真言、仏心等の諸宗にわたって、凡夫の初心より仏果の極位《ごくい》に至るまで、修行の方法や、得度《とくど》のすがた等をつぶさにのべ、これ等の方は皆義理も深く利益もすぐれているから、機法さえ相応すれば得脱は疑う処ではないが、といって凡夫はこれにつき難い事を述べ、浄土の教門の事の理をきわめ言葉をつくして説き語り、
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ただこれ涯分の自証を述ぶるばかりなり。またく上機の解行《げぎょう》を妨げんとにはあらず。
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という謙譲なる註釈を以てその席は終った。座主をはじめ満座の衆皆心服して、
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かたちを見れば源空上人。まことは弥陀如来の応現かとぞ感嘆しあえりける。
法印香炉をとり高声念仏をはじめ行道したもうに。大衆みな同音に。念仏を修すること三日三夜。こえ山谷にみち。ひびき林野をうごかす。信をおこし縁を結ぶ人おおかりき。
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と「御伝」の本文にある。
以来顕真法印は専修念仏の行者となり、念仏勧進の書を作り、又自身もその一人となって十二人の衆を置き、文治三年正月十五日より不断念仏を勝林院に行い、地内に五房を建て、その門下又|夫々《それぞれ》各所に念仏を宣伝し、俊乗房重源は上の醍醐に無常臨時の念仏をすすめ七カ所に不断念仏を興立し念仏の事業|愈々《いよいよ》隆盛の勢を示したのは大原問答の後のことである。
十五
慈鎮和尚(吉永僧正慈円)は法性寺《ほっしょうじ》忠通の子息であって山門の統領であり、名望一代に勝れた大徳であったが、この人も法然に就て念仏の行に帰し、法然を崇敬措かなかった。
妙香院の僧正良快は月輪殿の子息で慈鎮和尚のお弟子として顕密の学者であったがこれも法然の感化により浄土念仏に帰して初心の行者の為に念仏の肝要を記したものがある。
慈鎮和尚といい妙香院の僧正といい何れも名門の出であり、一代の有徳であり、その一代の行業は伝うべきもの甚だ多いが是等の大徳が帰敬《ききょう》し崇敬した法然の器量が思いやられる。
十六
高野山の明遍僧都《みょうへんそうず》は少納言|通憲《みちのり》の子であって三論の奥旨を極め、才名世に許されていたけれども、名利を厭《いと》い、勅命を避けて高野に隠遁していたが、或時法然の撰択集を読んで、「この書物は少し偏《かたよ》っている処があるわい」と思って眠りについた。その晩の夢に、天王寺の西門に数知れざる病人が寐《ね》ていたのを一人の聖が鉢に粥《かゆ》を入れて匙《さじ》を持って病人の口毎に粥を入れてやっているのを見て、あれは誰人かしらんと尋ねると傍にいる人が答えて、「法然上人でございます」というのを見て夢が醒めた。僧都が思うのに、これはわしが撰択集を少し偏っているわいと思ったのを誡められる夢であろう。この上人は機を知り、時を知りたる聖である。抑《そもそ》も病人というものは初めには柑子《こうじ》とか、橘《たちばな》、梨子《なし》、柿などの類を食べるけれども、後には僅にお粥をもって命をつなぐようになる。末世の世には仏法の利益が次第に減じて堅いものは食われず、念仏三昧の重湯で生死を離れるのであると云うことを悟って、それからたちまち顕密の諸行を差置いて専修念仏の門に入りその名を空阿弥陀仏と名づけた。とりわけ聖徳太子にゆかりのある仏法最初の伽藍《がらん》天王寺によってこの夢を見たこ
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