でただ本願をたよって名号を称えれば仏の願力に乗じて往生が出来るということを知るばかりであります」
法印の信心がそこで定まって疑念が忽ちに溶けて罷《まか》り帰った。
法然が清水寺で説教の時、寺家の大勧進沙弥印蔵《だいかんじんしゃみいんぞう》という者が、念仏の信仰に入り、滝山寺を道場として、不断常行念仏《ふだんじょうぎょうねんぶつ》をはじめて今に至るまで怠らぬ。これは文治四年のことである。
南都興福寺の古年童《こねんどう》という者、矢張り清水寺で法然上人の説教を聴いてから念仏に帰して、霊瑞がある。
建仁二年の三月十六日、法然が語って云う。
「慈眼房はわしにとっては受戒の師範である上に衣食住のこと皆|悉《ことごと》くこの聖《ひじり》に扶持をして貰った。だが法門をこの人に学んだ教えられたというわけではない。法門の義に就ては水火の如く論じ合ったこともある。この聖とわしとは南北に房を列べて住居をしていたが、或時慈眼房の前をわしが通ると、わしを呼び止めて、『大乗の実智を起さないで浄土に往生することが出来るか』と問われたから、わしは『それは往生が出来ますとも』と答えたら、『何にそう見えているか』と仰言《おっしゃ》るから、『往生要集の中に見えてございます』と申すと、聖が「わしも往生要集の中は見たぞ」と仰言る。そこでわしは「誰れでも中を見ないものはございますまい」と云い返したので慈眼房が腹をたてて枕をもって投げつけられたから、わしはやわらかに自分の房の方へ逃げて来ると、それを追っていらしって箒の柄で肩をたたかれたこともございます。又、或時は書物を持って来られてこれは何という言葉じゃと云われるから、これはこうと返答をすれば騒ぎだろうと思って、さあどういう意味でございましょうかと申すと、また腹立ちで、『お前の様な人間を置くのはこう云うことの相談にしたいからだ』と云われるような訳で、いつも争論にはなったけれども、最後には覚悟房という僧にわが名の二字を書かせて、却って弟子になって寺のお経や譲り文をも、もとは譲り渡しと書かれたのを取り返して進上と書き直して法然に贈って生々世々《しょうしょうせせ》互に師弟となる印であると申された。真言の師範であった相模阿闍梨重宴も最後には受戒の弟子となった、丹後の迎摂房《こうしょうぼう》も却って弟子となって浄土の往生をとげた。その時の院主僧都円長も最初のわしの師範であった美作の観覚得業も弟子になり皆自分の師範であった人が源空を戒師として弟子となった中にも、その時代の学者という学者は大抵慈眼房が戒を授けた弟子であるのに、その慈眼房が却ってこの法然の弟子となられたのは不思議のことである」と云って様々に語り聞かせたことがある。
建仁元年のこと左衛門志《さえもんのさかん》藤原宗貞という者がその妻の惟宗の子女と共に一寺を建立し、阿弥陀を本尊にし、脇士《きょうじ》には観音と地蔵とを安置し、事の序《ついで》をもって法然に供養を頼んだところ法然が、堂の中に入って見て、
「これは源空が供養すべき堂ではない」と云うて出て了った。願主が非常に狼狽して人に尋ねて、法然上人は勢至菩薩の垂跡《すいじゃく》であるとの専らの噂のあるのに、この堂にその菩薩が無いから上人の御心に添わないのだろう。そこで急いで勢至菩薩を拵《こし》らえ地蔵を脇へ移して、その後又序を以て法然に供養して貰い、これも不断念仏の堂となり、引摂寺《いんじょうじ》というて今に残り、勢至菩薩のうしろに地蔵様が隠れているということである。
十四
大原談義は天台の座主《ざす》顕真《けんじん》僧正が法然上人に向って念仏の要義を問われたことから始まっている。顕真と法然とは叡山の坂本で対面した。顕真僧正は例によって尋ねた。
「如何にしたらば生死《しょうじ》を離れることが出来ようか」
法然「それはあなたのお計らい通りになさるに越したことはございますまい」
僧正「貴僧はその道の先達《せんだつ》でござる故、定めて思いたつものがあるでござろう。それをお示し下されたい」
法然「左様、それは自分の為には少しは思い定めたこともあります。ただ早く極楽の往生をとげることでございます」
僧正「その往生というのがなかなかとげ難いことだから、そこでお尋ねをして見たのだ。どうしたら容易《たやす》く往生が出来るものかいな」
法然それに答えて、
「成仏ということはなかなかむずかしいが、往生は得易いことだと思います。道綽《どうしゃく》や善導の言葉に依れば、仏の願力を強縁として乱想の凡夫も浄土に往生することが出来るのでございます」
と、その日はそれだけで別条もなく、法然は帰って了ったが、その後で顕真座主がいうのに、法然房は智恵は深遠だけれども、どうも人間に聊《いささ》か偏固な欠点がある。
法然
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