ぎの奇瑞を感じたということがある。今の知恩院の処である。
 四条堀川材木商の堀川の太郎入道という者があった。深く法然に帰依していたが、法然往生の時は廟堂の柱を寄附した。その後へ西山の樵夫《きこり》だというて結縁に来たという物語りがある。

       三十九

 法然が臨終の時遺言をして孝養のために堂寺を建ててはならない。志があらばあんまり群集しないで念仏をして報恩のこととでもするがよい。群集をすれば闘諍《とうじょう》の縁となるからということをいましめておいたが、でも法蓮房が世間の風儀に従って念仏の外の七日七日の仏事を修することにして他の人もそれに同意した。初七日には信蓮房が導師となり、檀那として大宮入道内大臣(実宗)が諷誦の文を読んだ。それに准じて七七日《なななぬか》各名僧知識が導師となり或は諷誦の文を読んだ。
 三井の僧正公胤《そうじょうこういん》も懇ろに導師を望んだ。この人は法然に服しなかった人であったが上人誹謗の罪を懺悔し、先きに認めた浄土決疑抄《じょうどけつぎしょう》という書物を焼いて、法然七七日の仏事の導師となったものである。

       四十

 この三井の僧正公胤はまだ大僧都であった時に、法然の識論を破るといって、
「公胤が見た文章を法然房が見ないものはあるとしても、法然房が見た程の文章を公胤が見ないのはあるまい」と自讃して浄土決疑抄三巻を著わして撰択集を論難し、学仏房というのを使として法然の室へ送った。法然はその使に向ってそれを開いて見ると、上巻の初めに、
「法華に即住安楽《そくじゅうあんらく》の文がある。観経に読誦大乗《どくじゅだいじょう》の句がある。読誦の行をもってしても極楽に往生するに何の妨げもない筈だ。然るに読誦大乗の業を廃して、ただ念仏ばかりを附属するということは、これ大きな誤りである」
 と書いてあった。その文を法然が見て、終りを見ないで差置いて云うのに、
「この僧都、これ程の人とは思わなかった。無下《むげ》のことである。一宗を樹つる時に彼は廃立《はいりゅう》のむねを知って居るだろうと思われるがよい。然るに法華をもって観経往生の行に入れられることは、宗義の廃立を忘るるに似ている。若しよき学生ならば観経はこの爾前《にぜん》の教えである。彼の中に法華を摂してはならないと非難をせらるべき筈である。今浄土宗の心は、観経前後の諸大乗経をとって、皆悉く往生の行のうちに摂している。何ぞ独り法華だけが漏れる筈がない。普《あまね》く摂する心は念仏に対してこれを廃せんが為である」
 といった。使が帰ってこのことを語ると僧都は口を閉じて言葉がなかったということである。
 或時|宜※[#「火+禾」、第4水準2−82−81]門《ぎしゅうもん》の女院が中宮で一品《いっぽん》の宮を御懐妊の時に、法然は御戒の師に召され、公胤は御導師としてまいり合せたことがあった。御受戒が終って法然が退出しようとした時に、僧都の請によって暫く問答することになった。僧都は法然に向い、
「上人には念仏のことをお尋ね申すのが本来であろうがまず大要なるにつきて申して見ると、東大寺の戒の四分律《しぶりつ》であるのは如何なる謂《い》われでござろうか」
 そこで法然は東大寺の戒の四分律であるべき道理をつぶさに話して聞かせた。僧都が帰って考えて見ると法然の云われたことが少しも違わなかったから、次の日又参会の時、
「昨日お仰せになったことは、まことにお言葉の通りでございました」
 といって、法然を尊敬し、それから浄土の法門を話したり、その他のことを語った。その時僧都が玄※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]《げんうん》をぐえんくい[#「ぐえんくい」に傍点]と読んだので法然がそれは暉と書けばくい[#「くい」に傍点]と読ませるが、※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]と書いてはうん[#「うん」に傍点]と読むのがよろしいと訂した。すべて斯様な誤りを七カ条まで訂されたので、僧都が罷り出でて後弟子に語って云うには、
「今日法然房に対面して、七カ条の僻事《ひがごと》をなおされた。常にあの人に会っていれば学問がどの位つくかしれぬ。あの人が立てた処の浄土の法門が仏意に違っているということはない。仰ぎて信ずる外はない。あの上人の義を謗《そし》るは大きなる咎《とが》である」
 といって自分の拵《こしら》えた決疑抄三巻を焼いて了った。そういう因縁があって法然歿後の法要の導師を勤め前非を懺悔し、念仏の行怠りなく、建保四年|閏《うるう》六月二十日に七十二の年で禅林寺のほとりに往生を遂げられた。
 栂尾《とがのお》の明恵上人《みょうえしょうにん》(高弁)は摧邪輪《さいじゃりん》三巻を記して撰択集《せんじゃくしゅう》を論破しようとした。法然の門徒がこぞって難を
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