処へ、例の光親卿の運動や、その他があずかって、同じき十一月十七日にお許しの宣下が下り、そこではじめて法然が再び都の土を踏むことが出来たのは同じき二十日の日のことであった。
都へ入ってからの法然は、慈鎮和尚の計らいで大谷の禅房に住いをすることになった。はじめて都へ来た時に供養をのべんとして群参の者その夜のうちに一千人あったとのことである。それから引続いて幽閑の地にいたけれども訪ね来る人は連綿として絶えなかった。
三十七
建暦二年正月二日から法然は食事が進まず疲労が増した。総《すべ》て三四年この方は耳もよく聞えず、眼もかすんでいたが、この際になって明瞭にかえったようで、人が皆不思議に思った。二日以後は更に余の事を云わず、往生のことを話し、念仏の声絶えず、眠っている時も口と舌とは動いていた。三日の日に或る弟子が往生のことを、「御往生は如何」と尋ねる。
「わしはもと極楽にいた身だから又極楽へ帰って行くであろう」と。
又法蓮房が問うて曰《いわ》く、
「古来の先徳皆その御遺蹟というものがありまする。しかるに上人にはまだお寺を一つお建てになったということがございません。御入滅の後は何処を御遺蹟といたしましょうか」
と尋ねた。法然答えて、
「一つの廟所《びょうしょ》と決めては遺法が普《あまね》くわたらない。わしが遺蹟というところは国々至る処にある。念仏を修する処は貴賤道俗をいわず、あまがとまやまでもみんなわしの遺蹟じゃ」
十一日の巳《み》の刻に弟子が三尺の弥陀の像を迎えて病臥の側に立て、
「この御仏を御礼拝になりますか」といった処が、法然は指で空を指して、
「この仏の外にまだ仏がござる。拝むかどうか」といった。それはこの十余年来念仏の功が積って極楽の荘厳仏菩薩《しょうごんぶつぼさつ》の真身を常に見ていたが、誰れにも云わなかった。今|最期《さいご》に臨んでそれを示すといったそうである。
また弟子達が仏像の手に五色の糸をつけて、
「これをお取りなさいませ」
といった処が、法然は、
「斯様のことは常の人の儀式である。我身に於てはそうするには及ばぬ」
といって取らなかった。二十日の巳の時から紫雲が棚引いたり、円光が現われたり、さまざまの奇瑞があったということである。
二十三日から法然の念仏が或は半時或は一時、高声念仏不退二十四日五日まで病悩のうちにも高声念仏は怠りなかったが二十五日の午《うま》の刻から念仏の声が漸くかすかになって、高声が時々交じる。まさしく臨終であると見えたとき、慈覚大師の九条の袈裟を架け、頭北面西にして、
「光明遍照《こうみょうへんじょう》。十方世界《じっぽうせかい》。念仏衆生《ねんぶつしゅじょう》。摂取不捨《せっしゅふしゃ》」
の文を唱えて眠るが如く息が絶えた。音声が止まって後、なお唇舌を動かすこと十余反ばかりであった。面色殊に鮮かに笑めるが如き形であった。これは当に建暦二年正月二十五日午の正中のことであった。春秋満八十歳、釈尊の入滅の時と年も同じ、支干もまた同じく壬申《みずのえさる》であった。
武蔵国の御家人桑原左衛門入道という者、吉水の房で法然の教えを受けてから、国へ帰ることを止め祇園の西の大門の北のつらに住いして念仏をし、法然に参して教えを受けていたが、報恩の為にとて上人の像をうつして法然に差上げた。法然がその志に感心して自からその像に開眼《かいげん》してくれた。法然が往生の後はその像を生身の思いで朝夕帰依渇仰していたが、やがて往生の素懐をとげた。年頃同宿の尼が本国へ帰り下る時、その像を知恩院へ寄附した。当時|御影堂《みえいどう》にある木像がそれである。
三十八
法然の最期の前後にその門徒の人々が様々な夢を見たり、奇瑞《きずい》を見たりしたことがある。参議兼隆卿は上人が光明遍照の文を誦して往生する処を夢み、四条京極の簿師真清は往生の紫雲と光りと異香とを夢に見、三条小川の陪従信賢が後家の養女、並に仁和寺の比丘尼西妙はその前夜法然の終焉《しゅうえん》の時を夢み、その他花園の准后の侍女参河局、花山院右大臣家の青侍江内、八幡の住人|右馬允《うまのじょう》時広が息子金剛丸、天王寺の松殿法印、一切経谷の袈裟王丸、門弟隆寛律師、皆それぞれ法然の往生を夢みて一方ならぬ奇瑞を感得している。
法然の住居の東の岸の上に、襾《おお》われた勝地がある。或人がこれを相伝して自分の墓と決めておいたが、法然が京都へ帰った時、その人がそれを法然に寄進した。法然が往生の時ここへ廟堂を建てて石の空櫃《からびつ》を構えて収めて置いた。この廟所についても多くの奇瑞が伝えられている。この地の北の庵室に寄宿している禅尼、地主、その隣家の清信女だとか、清水寺の住僧別当入道惟方卿の娘粟田口禅尼というような人がふし
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