とを不思議の縁としている。
法然が天王寺に詣でた時、明遍僧都がここへ訪ねて案内があった。法然は客殿に待っていて「さあこれへ」といわれる。明遍僧都はさし入ってまだ居直らない先きに尋ねかけて云う。
僧都「さてこの度|如何《いかが》いたして生死を離れたものでござりましょう」
法然「南無阿弥陀仏と唱えて往生を遂ぐるに越したことはありますまい」
僧都「たれも左様にお聞き申しては居りますが、ただその折角の念仏の時に心が散乱し、妄念の起るのを如何いたしたものでござりましょう」
法然「欲界の散地《さんち》に生を受くる者、心の散乱しないということがござりましょうや。煩悩具足《ぼんのうぐそく》の凡夫の身がどうして妄念を止めることが出来ましょう。そのことに就ては私とても力の及ぶことではござりませぬ。ただ心は散り乱れ妄念は競い起るとも、口に名号を唱えなば弥陀の願力に乗じて必ず往生が致されるということだけを知って居ります」
と返事した。
僧都「それを承りたいがためにまいったのでござります」
といって明遍僧都はそのまま罷《まか》り帰ってしまった。あたりの人がそれを見て、この両名僧初対面であるに拘らず、一言も世間の礼儀の挨拶もなくて別れられたのは如何にも尊いことだと感心した。僧都が帰ってから法然はうちへ入って側近の人に向って云うよう。
「心を静め妄念を起さないで念仏をしようと思うのは生れつきの眼鼻をとり払って念仏をしようと思うようなものじゃ」といわれた。
その後明遍僧都は深く法然に帰依《きえ》して専修の行《ぎょう》怠りなかった。
法然が亡くなった後にはその遺骨を一期《いちご》の問頭にかけて後には鎌倉右大臣の子息である高野の大将法印定暁に相伝えられた。
貞応三年六月十六日八十三歳の高齢をもって念仏相続して禅定に入るが如く往生せられた。
十七
安居院《あぐい》の法印聖覚は入道少納言通憲の孫に当り、澄憲大僧都の真の弟であるが、これも法然の化道《けどう》に帰して浄土往生の口決《くけつ》を受けたが、法然からは特に許されていたと見え大和前司親盛入道が法然に向って、
「あなたが御往生の後はどなたに疑を質したらよろしゅうございますか」と尋ねたところ法然が、「聖覚法印我が心を知れり」といわれたとのことである。
この法印が書を著わして広く念仏をすすめられた。それは「唯信鈔
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