しの師範であった美作の観覚得業も弟子になり皆自分の師範であった人が源空を戒師として弟子となった中にも、その時代の学者という学者は大抵慈眼房が戒を授けた弟子であるのに、その慈眼房が却ってこの法然の弟子となられたのは不思議のことである」と云って様々に語り聞かせたことがある。
 建仁元年のこと左衛門志《さえもんのさかん》藤原宗貞という者がその妻の惟宗の子女と共に一寺を建立し、阿弥陀を本尊にし、脇士《きょうじ》には観音と地蔵とを安置し、事の序《ついで》をもって法然に供養を頼んだところ法然が、堂の中に入って見て、
「これは源空が供養すべき堂ではない」と云うて出て了った。願主が非常に狼狽して人に尋ねて、法然上人は勢至菩薩の垂跡《すいじゃく》であるとの専らの噂のあるのに、この堂にその菩薩が無いから上人の御心に添わないのだろう。そこで急いで勢至菩薩を拵《こし》らえ地蔵を脇へ移して、その後又序を以て法然に供養して貰い、これも不断念仏の堂となり、引摂寺《いんじょうじ》というて今に残り、勢至菩薩のうしろに地蔵様が隠れているということである。

       十四

 大原談義は天台の座主《ざす》顕真《けんじん》僧正が法然上人に向って念仏の要義を問われたことから始まっている。顕真と法然とは叡山の坂本で対面した。顕真僧正は例によって尋ねた。
「如何にしたらば生死《しょうじ》を離れることが出来ようか」
 法然「それはあなたのお計らい通りになさるに越したことはございますまい」
 僧正「貴僧はその道の先達《せんだつ》でござる故、定めて思いたつものがあるでござろう。それをお示し下されたい」
 法然「左様、それは自分の為には少しは思い定めたこともあります。ただ早く極楽の往生をとげることでございます」
 僧正「その往生というのがなかなかとげ難いことだから、そこでお尋ねをして見たのだ。どうしたら容易《たやす》く往生が出来るものかいな」
 法然それに答えて、
「成仏ということはなかなかむずかしいが、往生は得易いことだと思います。道綽《どうしゃく》や善導の言葉に依れば、仏の願力を強縁として乱想の凡夫も浄土に往生することが出来るのでございます」
 と、その日はそれだけで別条もなく、法然は帰って了ったが、その後で顕真座主がいうのに、法然房は智恵は深遠だけれども、どうも人間に聊《いささ》か偏固な欠点がある。
 法然
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