ういっこうせんしょうみだぶつみょう》と釈をなさいました。称名が勝れているということは明かでございまする。聖教をばよくよく御覧になりませんで」といった。
法然は一向専修《いっこうせんじゅ》の身となったので、叡山を立ち出でて西山の広谷《ひろたに》という処に居を移したが、やがて間もなく東山|吉水《よしみず》の辺に静かな地所があったものだから、広谷の庵《いおり》をそこへ移して住み、訪ねて来るものがあれば、布教をし、念仏を進められた。そこで日々に信者が集って念仏に帰する者が雲霞の如く群って来る。これが浄土法門念仏の発祥地であった。
その後加茂の川原や、小松殿、勝尾寺《かちおでら》、大谷など、その住所は改まるとも勧化《かんげ》怠りなく遂に末法相応浄土念仏《まっぽうしょうおうじょうどねんぶつ》が四海のうちに溢るるに至った。
東山大谷は法然上人往生の地である。その跡というのは東西三丈余、南北十丈ばかり、その中に立てられた坊舎であるから、その構えの程も大抵想像がつく。如何《いか》に質素倹約のものであったか思いやられて尊い。今の御影堂《みえいどう》の跡がそれである。
法然が或時云う。
「わしは大唐の善導和尚の教えに従い本朝の一心《せんしん》の先徳のすすめに任せ、称名念仏の務め長日六万遍である。死期漸く近づくによって又一万遍を加えて、長日七万遍の行者である」といわれた。
法然が、仏七万遍になってから後は昼夜念仏の外に余事を交《まじ》ゆるということなく、何か人が来て法門の話でもする時にはそれを聞く為か、念仏の声が少し低くなるだけのことで一向に念仏を差置くということはなかった。
法然が或時語って云う。
「われ浄土宗を立つる心は凡夫《ぼんぷ》の報土に生るることを示さんが為である。他の宗旨によってはその事が許されないから、善導の釈義によって浄土宗を立てたのである。全く勝他の為ではない」
法然が又或時|播磨《はりま》の信寂房《しんじゃくぼう》というのに向って、
「ここに宣旨《せんじ》が二つ下ったとして、それを役人が取り違えて鎮西へ遣わさるべき宣旨を坂東へ下し、坂東へ遣わさるべき宣旨を鎮西へ下すことになった時は、受けた人がそれに従い用うることが出来ますか」
と尋ねた処、信寂房が暫く思案して、
「それは畏《おそ》れ多い宣旨とは申せ、取り替えられたものはどうも従い用い奉ることは出来ますま
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