ひじり》は東寺の流れで当時の正統を継ぐ真言の師範である。
 このようにして法然は智恵第一の誉《ほま》れが一代に聞えた。実際当時日本に渡っていた聖教伝記《しょうぎょうでんき》の類を目に当てないものは一つもなかったといってよろしかろう。天台は固《もと》よりのこと他宗の総てに亙《わた》って一代の宗となる程の学力を有していた。禅の宗旨を論じた自筆の書物も存していたということである。
 法然が或時|月輪殿《つきのわどの》で叡山の一僧と参り合せたことがあった。その僧が、
「あなたが浄土宗をお立てになったのは何れの文に依ったのでございますか」と尋ねた時法然は、
「善導大師の疏の附属の文によりました」と答えた。山の僧が重ねて、
「苟《いやし》くも一宗義を立つる程のことに、ただそれだけの一文に依るべきものですか」と詰問した。法然は微笑して何とも云わなかった。その僧が叡山に帰ってから山の宝地房法印証真《ほうじぼうほういんしょうしん》にこの事を話して、
「法然房も返答をしなかった」というと、宝地房が云うのに、
「法然房の物を云われなかったのは、云うに足らずと思ったからである。彼《か》の人は天台宗の達者である上に剰《あまつさ》え諸宗に亙ってあまねく修学して智恵の深遠なること常の人に越えている。返答が出来ないで物を云わないのだと思うようなことではならぬ」といわれた。
 この法印は叡山に於て非常な学者で、一切経を繙《ひもと》き読むこと五返であったけれども恵心僧都《えしんそうず》が矢張り五返読んでいるという前例を憚《はばか》って三返だといった程で、時の地蔵菩薩の化身《けしん》と称していたこの法印が上人を智恵深遠と崇めていたのはよく法然を知る者と云うべく、他の人の賞美よりも意味が深いのである。
 法然が老後に竹林房静厳法印《ちくりんぼうじょうごんほういん》の弟子が天台の法門を尋ねた。法然は、
「わしは近頃は老耄《ろうもう》の上に念仏一方で、久しく聖教《しょうぎょう》を見ないが」といってそれでも後進の為に委しく天台の深奥を説き聴かせたが、その文理の明なること、当時の学者よりも秀れていた。どうしてもただ人ではないと感じ入ったことがある。その頃山門に学者林の如く幾多の明匠もあったのを差置いて隠遁の法然に宗の大事を尋ねに来たことによってもその達している程が推し計られる。
 法然が語って云うよう、
「わしは
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