りまどろんだ後起き出でて夜明くるまで高声念仏が絶えることがなかった。常に云うには、
「人がよく閑居の処を高野とか粉河《こかわ》とか云うけれども、わしは暁のねざめの床程のことは無いと思う」
又|安心起行《あんじんきぎょう》の要《かなめ》は念死念仏にありといって、「いずるいき。いるいきをまたず。いるいき。いずるいきをまたず。たすけたまえ。阿弥陀ほとけ。南無阿弥陀仏」と常に云っていた。
嘉禎四年二月二十九日様々の奇瑞のもとに七十七で大往生をとげた。霊異のことが数々あるけれども記さず。
勢観房源智は、
「先師法然上人の念仏の義道をたがえずに申す人は鎮西の聖光房である」といわれた。そこで勢観房の門流は皆鎮西に帰して別流を樹てなかったということである。
そのほか安居院《あぐい》の聖覚法印、二尊院の正位房なども自分の宗義の証明には聖光房をひき合いに出したそうである。聖光房の門流を「筑紫義《つくしぎ》」という。
四十七
西山の善恵房澄空は入道加賀権守|親季《ちかすえ》朝臣の子であったが、十四歳から三十六歳まで、二十三年の間法然について親しく教えを受けた。
この人は弁論の巧者の処があった。自力根性の人に向って、白木の念仏ということをよく云って、自力の人は念仏をいろいろに色どっていけない。色どりのない念仏往生のことを知らない。というようなことを説いた。
津戸三郎は上人が亡くなってからは、不審のことはこの善恵房に尋ねた。関東にはその教化消息が伝わっている。
この聖は非常に恭敬な修行者で、何か不浄のある時などは四十八度も手を洗ったことがある。毎月十五日には必ず二十五|三昧《ざんまい》を行じ、見聞の亡者をとぶらい、有縁無縁を問わず、早世の人があれば忌日には必ず忘れないで阿弥陀経を読み、念仏をしてねんごろに回向《えこう》をした。
西山の善峯寺から、信州善光寺に至るまで十一カ所の大伽藍を建て、或は曼陀羅《まんだら》を安置し、或は不断念仏をはじめて置く。これにみんな供料、供米、修理の足をつけて置いた。これとても全く勧進奉加《かんじんほうが》をしないで諸人の供養物をなげうってこう云うことをしたのである。
宝治元年十一月二十六日年七十一歳でこれも様々の奇瑞のもとに大往生をとげた。
四十八
法性寺の空阿弥陀仏はどこの人であったかわからないが、延暦
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