画にぬかりのない人であったから、時の人に「支度第一俊乗房」と称せられていた。
建久六年三月二十日造営の功を了《お》え、供養をとげられた。天子の行幸があり、将軍頼朝も上洛した。法然の勧化《かんげ》に従って念仏を進め、上の醍醐に無常臨時の念仏をすすめ、その他七カ所に不断念仏を興隆した。
建久六年六月六日東大寺に於て往生した。
四十六
鎮西《ちんぜい》の聖光房弁長(また弁阿)は筑前の国加月庄の人であったが、十四の時天台を学びその後叡山に登り、一宗の奥義を極めたが、建久八年法然六十五、弁阿三十六の時吉水の禅室にまいり、法然の教えを聞いたが、その時心の中で思うよう、「法然上人の智弁深しと雖も、自分の解釈する処以上に出でる筈がない」と。そこでまず試みに浄土宗の要領を叩いて見ると、法然が答えて、
「お前は天台の学者であるから、まず三重の念仏を分別して聞かせよう」
と数刻に亙《わた》って細々と念仏の要旨を説き聞かせたので聖光房の高慢の心が直ちに止み、長く法然を師として暫くも座下を去らずに教えを受けた。
建久九年の春には法然から撰択集を授けられ、
「汝は法器である。これを伝持するに堪えている。早くこの書を写して末代にひろむべし」
と云われたそうである。
同年八月に法然の命を受けて、伊予に下りて又帰洛し一宗の奥を極め、元久元年八月上旬に吉水の禅室を辞して、鎮西の故郷に帰り、浄土宗を隆《さか》んにした。
安貞二年の冬肥後国往生院で四十八日の念仏を修した時に、後の人の異義を戒めんが為に、一巻の書を著した。「末代念仏授手印《まつだいねんぶつじゅしゅいん》」といいよく法然相伝の義を伝えた。
筑後の国高良山の麓に厨寺《くりやでら》という寺があった。聖光房がそこで一千日の如法念仏を修した処、八百日に及んだ頃、高良山の大衆《だいしゅ》が、「この山は真言の宗旨だ。この山の麓で専修念仏はけしからん。念仏の輩を追い出せ」という評議が決まったが、聖光房は心を決めて待ち構えていると、その翌日思いの外一山の大衆がいろいろの供物を捧げてやって来たというような話もある。
筑後の国山本郷という処に善導寺という寺を建てたが後には改めて光明寺と名づけ一生ここで念仏伝道した。
この人は毎日六巻の阿弥陀経、六時の礼讃時をたがえず、又六万遍の称名怠ることなく、初夜のつとめを終って一時ばか
前へ
次へ
全75ページ中72ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング