さるようなことになってはお命の程も思われる。どうかさようにお計いをお許し下さいましといって赦免の運動を試みようとしたが法然はそれを聞かなかった。
「流されることも更に怨みとすることはない。わしももう年八十に近い。たとい皆の者と同じ都に住んでいてもこの世の別れは遠くない。たとい山海をへだつとも浄土では遠からず会えるのだ。嫌やでも人間は生きる間は生きている。惜しがっても死ぬ時には死ぬのが人の命じゃ。必ずしも処によるということはない。ましてこの念仏の興行も都ではもはや年久しいことだ。これから辺鄙《へんぴ》に赴いて、田夫野人をすすめることが年頃の本意であったが、まだいろいろ事繁くしてその本意を果すことが出来なかった。それを丁度この度の事件で果すことが出来るようになったのは有難い朝恩といわねばならぬ。人が止めようとしても法は更に止まるものではない」
 といって進んで配所へ赴くことになり、その際にも丁度一人の弟子に対して一向専念の教えを述べはじめた。それを聞いてお弟子の西阿弥が驚いて上人の袖を控え、
「念仏は御停止《ごちょうじ》でございます。左様なことをおっしゃっては御身にとりて一大事でございます。皆々御返事をしてはなりません」
 と師の身を思うて云い出すと、法然は西阿に向い、
「そちは経釈の文を見たか」
 西阿答えて、
「経釈の文はどうありましょうとも、今の場合の世間態が――」
 と口籠《くちごも》ると法然が、
「われはたとい死刑に行わるるともこのことを云わなければならぬ」
 官人は小松谷の房へ行って、「急いで配所へお移りなさるように」と責めた。そこで遂に法然は都を離れて配所の旅に赴くことになった。
 月輪殿は名残《なご》りを惜んで、法性寺の小御堂に一晩お泊め申した。月輪殿の歎きは尋常でなかったけれども、今は主上の御憤りが強い時であるから却っておいさめ申しても悪い。そのうち御気色をうかがって御勅免を申請うということを語られた。月輪殿の傷心のほどはよその見る眼も痛ましいものであった。

       三十四

 三月の十六日に愈々都を出でて配所への旅立ちになる。
 信濃の国の御家人角張成阿弥陀仏という者が力者《りきしゃ》の棟梁として最後の御伴《おとも》であるといって御輿《みこし》をかついだ。同じようにして従う処の僧が六十余人あった。
 法然は一代の間、車馬、輿などに乗らず常に金
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