の心をうつものが多かったから、聴衆も多く集まり、それを聞いて発心する人も少くはなかったうちに、御所の留守の女房連が、それにききほれて、遂に断りなく出家をしてしまった。後鳥羽院遷幸の後、そのことを聴かれて、大に逆鱗《げきりん》あり、翌年二月九日住蓮、安楽を庭上に召されて罪を定むる時、安楽房が、
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見有修行起瞋毒《けんうしゅぎょうきしんどく》。方便破壊競生怨《ほうべんはえきょうしょうえん》。如此生盲闡提輩《にょししょうもうせんだいはい》。
毀滅頓教永※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]淪《きめつとんきょうえいちんりん》。超過大地微塵劫《ちょうかだいちみじんごう》。未可得離三途身《みかとくりさんずしん》。
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 の文を読み上げたので、逆鱗愈々さかんにして、ついに官人秀能に仰せて六条川原で安楽を死刑に行われてしまった。
 安楽を死刑に処せられた後も逆鱗なお止まず、それにこれを機会として多年法然の念仏興行に多大の嫉妬と反感を持っていた勢力が喰い入ったものか、遂にその咎が師の法然にまで及んで来た。
 法然は「藤井元彦《ふじいのもとひこ》」という俗名を附けられて土佐の国へ流されることになった。その宣下状に云う。
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太政官符  土佐国司
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流人藤井元彦
使|左衛門府生《さえもんのふしょう》清原武次   従二人
門部《かどべ》二人         従各一人
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右流人元彦を領送のために。くだんらの人をさして発遣くだんのごとし。国よろしく承知して。例によりてこれをおこなえ。路次の国。またよろしく食済具馬壱疋をたもうべし。
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   建永二年二月二十八日[#地から3字上げ]符到奉行
[#地から3字上げ]右大史中原朝臣
[#地から3字上げ]左少弁藤原朝臣
 追捕《ついぶ》の検非違使《けびいし》は、宗府生久経、領送使は左衛門の府生武次であった。法然帰依の輩がこの大事件を聞いて歎き悲しむこと例《たと》うるにものなく、門弟のうち皆々住蓮、安楽が既に死刑に処せられた上は、上人のお咎めとしては念仏興行の理由ばかりであるから、表面上一切の興行をお止めになって、内々で御教化をするようにして、上へ御宥免《ごゆうめん》を願うように致したい。御老体を波路遠くまでおいでな
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