してはきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]に過ぐるようで立居の荒い弥之助に取っては持ちの方がどうかしらと心配したが見かけによらず丈夫なもので中々裂けたりやぶれたりしない、さて穿《は》き心の方はどうかというとこれは普通の袴と違って裾が締って居るから階子段の登下りにしろ菜園への出入にしろ少しも衣裳が邪魔にならない、その上保温力が大したもので、あれをはいて居ると下腹部から下の温みが着物一枚どころではない、万事につけて耕書堂生活にはぴったりとした着用物である。自分の予想が当った事を非常に喜んで弥之助はこれを塾中の若い者にはかせる事にし、大島氏の送られた型によって近所の呉服屋へ注文して更に木綿製五着を作らせた。
 それから暮になって東京へ出て見ると丸ビルの一角に純田舎製のモンペが売店に二三着陳列してあった、尚聞けば伊勢丹あたりのデパートにもあるという事である、それがもう少し早くわかれば、わざわざ大島氏をわずらわさなくってもよかったと思う、然しこの機縁から大島氏の好意と親切が長く吾々の身体を温めてくれる記念と思えば結句有難い思い出になる。
 この一月二日の日に、大島氏は果して約束の如く此度は新たに地方色豊かなモンペ二着を小包郵便を以て送り来された。
 さて、こうなって見ると、普通の羽織を引っかけたのでは、前の方に隙間《すきま》が有り過ぎる、これは釣合のとれた被布様のものに限る、と、弥之助はこう考えたものだから、次には被布の製作方を思い立った。幸、それには好適の古羽織が一枚ある、これは全部三味線糸で織ったもので、重さは普通木綿の二三倍もある、雨合羽《あまがっぱ》代用などにしながら持て余していた。これを一つ仕立て直してもらって、上っ張りにしようと、人に頼んで被布式に縫い直し、裏地を撤去して、成るべく重量を減らしてもらった、これがまた、丈夫でもあり、惜気《おしげ》も無くて至極よろしい。
 日本農村の服装改良はこんなところから初まるであろう。

       十五

 弥之助は食土一如の信者というわけでは無いが、この武蔵野の植民地に住む限りは、主としてこの附近の産物を食料にとる方針を立てた。
 水田の無いこの野原では陸稲を主としなければならない、陸稲にも相当種類はあるが、釜割《かまわれ》種はさっぱりし過ぎてねばり気が少ない、もう一つの平山種はきびの悪い程うまかった、うまいと云った所で水稲とは比較になるべき筈のものではないが、普通陸稲のさらさらしたものにくらべて、きびの悪い程ねちねちした味いがある、然し麦となると本場である、小麦も大麦もどちらも本格で、小麦は挽《ひ》かせて、うどんに造ったり餅に焼いたりするが、色こそ黒いけれども、その持味は公設市場で売るメリケン粉の類ではない、小麦本来の持味が充分で同時に営養価も高い事が味わえる、大麦に至っては主として碾割《ひきわり》にして食用に供するのとこの頃は押麦にしてその儘飯に炊くのとである、碾割の方は桝目《ますめ》にして格別殖えも減りもしないが、押麦は押しにやるとかえって桝目がふえて帰る、裸麦の或種のものは三斗やって四斗になって帰るものもある。この大麦は麦だけを飯に炊く家もあるが少々ずつ米をまぜて炊く家もある。弥之助の経験ではこの大麦の引割に適度の米をまぜて食うのが一番味がさっぱりとして、然も腹工合に最もよいと思われる、水辺に住む者はやはり風土の関係で肥膏なる米食がよいかも知れぬが、こういう平野に住む者には麦食が確かによろしい、食養学の上から研究したらどうか知れないが、弥之助の体験によると確かにそうだ。
 漏れ承る所によると 天皇陛下に於かせられても、麦と半搗米とを常の御料に召されるそうである。
 一体稲と麦とは如何にもよい対照をもって居る穀物で、稲は春に仕立て夏に育ち秋に取入れる。一年中の最も陽性を受けた豊潤な時を領分として成熟する。それに引替えて麦は陸上に霜枯れの時代から蒔《ま》き初め、厳寒の境涯を通し氷雪の鍛練を受け、そうして初夏の候に初めて収穫を見るのである。だから麦は堅忍不抜なる男性的であり、米は優美豊満なる女性的である、いずれにしてもこの二つが相並んで穀類の王座を占めて居ると云える。
 小麦は別格であるが、パン食をする様になれば、この小麦が米と大麦とを凌駕《りょうが》して穀物の王座にのぼる事になるのだが、パン食は日本人にはまだ向かない、また日本の小麦はうまくパンに焼くことが出来ない、これは製粉して副格的の食用に供するばかりだがこれに次いでは粟《あわ》と蕎麦《そば》とである、粟は近頃作る人がすくないがこれも飯にして少し米の分量を多くした炊き立てなどは白と黄の色彩も快く一種の香気があって中々うまいものだ、都人士に食べさせても珍重がられる程の味があるけれども、冷えるとぼろぼろになって味もさっぱり落ちてしまう欠点がある。稗《ひえ》とか黍《きび》とかいうものはこの辺ではほとんど作らない、赤豌豆《あかえんどう》は昔は盛んに作ったものだが害虫がおびただしく発生するというので、全村申合せて作らない事にして居るがこれは甚だ惜しい事だと思う。
 赤豌豆は、花があれで中々しおらしくて美しい、観賞用にしたスイートピーよりは畑作りの豌豆の花の咲き揃った所が弥之助は好きであった、それに青いうちに莢《さや》ごともいで枝豆を食う様にして食べるとその甘みとうまさは忘れられないものの一つであり、かつまた熟し立てをほうろく煎《い》りにしたり塩うでにしたりして食べてもうまい味がある、ああいうのが味えなくなったのが如何にも残念である。
 東京では盛んに塩豆を売って居る、成程あれも豌豆には違いないけれどもああなっては豌豆のもつ原始味などは全く涸渇してしまっている。
 東京の縁日でどうかすると煎り立て豆を売って居る、豌豆を水につけて軟らかにしたやつを塩をまぶして金網で煎り立て、その熱いやつを紙袋に入れて売る。あれにはまだ相当に豌豆の原始味が残って居る。それも近頃はだんだん尠《すく》なくなってしまったが、浅草公園の瓢箪池《ひょうたんいけ》の附近に行くと最近まであれを専門に売って居る露店があったものだ。弥之助はあすこへ行く度にあれを買い込んであたりはばからずひげ面《づら》にほおばりながら歩いて同行の人を冷々させたものだ、以前東京の市中で豌豆煮立と云って売り歩いたものだがこの頃ではそれも聞えなくなった、豌豆の本当の味は青い時分莢ごと茄《ゆ》でて食うにあるのである、莢ごとといっても莢豌豆とは別である、莢豌豆は今もどこでも栽培を禁止する事はなくお汁の実などにして莢ごとに食べる、だれも御存知の通りだが、赤豌豆は莢ごとに茹でても莢は食べられない、枝豆を食うようにして粒だけ食べるのである。
 枝豆といえば枝豆の原料としての大豆も昔はこの辺でも盛んに作ったが、今ではこれも害虫の理由《わけ》か或は大陸で大量製産がある為に引合わないせいか殆んど全く作らない、それが為に枝豆の食べられない事などは知れたものだが、味噌醤油の自家造も止まったし節分の豆まきの豆も無い、こういうものはすべて買った方が割に合う様になって居るのだろう。
「年とりの豆まきの豆迄こうして袋に入れて三越で売る様になった」
と弥之助の母などは三越の屋上庭園に大豆畑でも出来たほどに驚歎して居る。

       十六

 二月末の或日の事、五の神の力さんが小風呂敷に包んだものを持って来て、
「これは一等賞を取った薩摩薯《さつまいも》だ、一つ食べて見てもらい度い」
と云った。
「それは好いところだ、何か食べ度いと思って居たところだ、なまかね、ふか[#「ふか」に傍点]したのかね」
と弥之助が尋ねると、力さんが、
「今ふかしたてだよ」と云った。
 弥之助はその小風呂敷を受け取って包を解いて小さいのを三本若い者に分けてやり自分はその大きいのを受け取って皮をむいて食べながら力さんと話した。
「なる程これはうまい、甘薯《かんしょ》のうまいのは、ほくほくして栗の味がする、この間のおいらんとは全く別な味だ、これは何という種類です」
 力さんが答えていう。
「これは紅赤《べにあか》というので、元は川越種です、埼玉県から来たものです、ずっと前に埼玉から熱心家が来てこのさつま薯の種や、それから丈が短くて穂の大きい麦種をこっちの方へ流行《はや》らせたが、この人は毎年麦を 天皇陛下に納める役を仰せつかって居る」
という様な事を話して、
「すべて好いものはトクですよ、この紅赤とおいらんでは第一これをふかす薪からして違います、おいらんをふかす燃料の三分ノ一で立派にふけた上にこの通り味がよくてその上に腹持がいいです、おいらんを五本食べるところを、これなら二本で結構腹持が出来るというものです」
と力さんが云った、いいものは却って経済であると云う理法はたいていの場合に通用する。

       十七

 弥之助は先頃から理髪の自足自給を初めている。
 弥之助は生れつき毛深い方で眉毛《まゆげ》も鬢も濃く、従って髪の毛も黒く小供の時からいい毛だと云って、年頃の娘達にうらやましがられたものであるが、どうも天性|無精《ぶしょう》で今日迄髪を分けたという事がない、せいぜい五分刈ですましてしまう、その位だから理髪店へ行って時間をとられるのは何よりつらい。東京に居る時はいつも一番安い理髪店を求め歩いては刈らしたものであるが、それは節約の為のみでは無い、安い所は手っとり早く済ましてくれるという点が有難かったのだ。
 ところが植民地へ来てから青年がバリカンを使う事を心得て居たので早速バリカンを買い込んでこれに理髪を任せた。
 昔三十年も前に東京でこれをやって見た事がある、その時はバリカン一挺《いっちょう》三円以上もして然もあんまり工合がよくなかった事を覚えて居る、このバリカンというやつにも当りはずれが相当にある、そこで今度もどうかと思いながら、隣村へ買わせにやった処、一円三十銭ばかりで一挺買って来た、それを使わせて見ると案外の好調子でその後半年の間に何十頭も刈ったが更にひるまない、このところバリカン大当りである。

       十八

 日支の事変が初まってから当然物価は騰《あが》り初めた、然し暴利取締りが相当行届いてるせいか、その割に暴騰までには立到って居ない、特に農産物等はほとんど価格の値上りを見ない、都会の台所では相当に騰って居るかも知れないが、農村の収入としてはほとんどひびいて来ない、ところが、俄然《がぜん》として弥之助の耳元にひびいて来たのは人間の価上りであった。昨年百五十円程度の作男の給料が二百五十円以上にまで飛び上ってしまった、それから昨年四十円の仕込盛りの小供が今年は九十円で他に口があるからと申込んで来た。男の方が約七割、小供の方が十二割以上の価上りである。こういう相場は誰が立てるのか知れないが兎に角それが共通した相場になって居て、それでも新たに頼み出しというのがほとんどない、人間の不足という事が覿面《てきめん》にここへひびいて来た。兎に角支那へ向けて大量の人間が進出して居るその影響がこうも現金にむくって来たのである。これは実に日本の農村の古来未だ曾《かつ》てなかった一大事件であるのみならず、壮丁の支那進出は、この分ではいよいよ多くなろうとも減ずる気づかいはない、今後労力の不足はいよいよはげしくなるに相違ない、そうかと云って労力の暴騰に準じて一俵十円の小麦が十五円になるという様な訳には行かない、この農村労力問題を如何《どう》するか、共同経営の新方法で行くか、機械化電化の促進で行くか、いずれ農村労力の革命が行われねばならぬ事を弥之助は感じた。今迄人口過剰に苦しんで居た日本内地がやがて人力飢饉に落ちて行く形勢がありありと解るような気持がした。
 殊に百姓弥之助の植民地は○○(伏字)飛行場の飛行機の散歩区域である。軍需品の工場が、その飛行場からこちらへ向けて、ドシドシと立て増されて行く、今迄農業に働いていた青年をはじめ、女子供に至るまで、ドンドンとその方に吸収されて行くから、この農村労力の移動がハッキリして来る。
 年々七八十万の人
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