した軍気の中には触るるもの皆砕くと云う猛力が溢れ返って居る、村落駅々から送られて出る光景には慥《たし》かに一抹の哀々たる人間的離愁がただよっていないという事はない。すでに斯うして武装した軍隊を見ると秋霜凜冽《しゅうそうりんれつ》、矢も楯もたまらぬ、戦わざるにすでに一触即発の肉弾になりきっている。
だから出征の勇士は全く本望を以て死ぬ事が出来る――ただたまらないのは戦終って後その士卒を失った隊長、昨日迄の戦友と生別死別の同輩、それから残された遺族等のしのばんとしてしのぶあたわざる人情の発露である、戦争にはそれがつらい、ただそれだけがつらい、この悲痛をしのぶ心境に向っては無限の同情を寄せなければならぬ。
十二
軽便炭焼は成功した、試験としては先ず上々であると云わなければならぬ、約五俵の木炭が取れた、これで自給は成功した、この方法は農家一般に流行《はや》らせたいものだ、素材そのままで炉《ろ》にもやす方法から炭化生活に入る生活改善の第一段と云えよう。
この方法は別に図解で示す積りであるが、火を焚きつけてから盛んに煽り内部に燃えついた時分を見計らい焚きつけ口をふさいで次に後ろの風入口から火を吹く迄の限度――この間が約一昼夜、火を吹いてから約一時間の後、その口をふさいでそのまま二三日放置して完全に燃焼炭化しきった頃を見はからって掘出しにかかる、この試験では試掘の時機が少し早過ぎた為に不燃焼の部分が多少残って居た、今度はその点に注意する事、それから風入口から火を吹き出す機会が夜中にならぬ様、あらかじめ時間を見はからって点火をする事がかんじんである。
百姓弥之助はこの自家用炭焼の成功を喜んで同時に農村炭化と云う事を考えた。近頃は農村電化と云う声を聞くが、これが実行は現在の農業組織では中々容易なものではないが農村炭化となると組織の問題ではなく直ちに実行の出来る生活改善の一部なのである。薪として燃したり粗朶《そだ》として燃やしたりする大部分に少しの手数をかけてこれを炭化して使用する事になると時間と経済と衛生との上に多大な利益がある。
日本の農村生活から囲炉裏《いろり》と云うものを容易に奪う訳には行くまい、囲炉裏の焚火と云うものは、ほとんど原始的のものであるけれどその囲炉裏を囲むという実用性と家庭味は日本農村の生命であって火鉢やストーブでは充《み》たしきれない温かみがそこにあるのであるが、然しこの原始的の情味も早晩相当の改良を加えなければならない時機に達するだろう。
第一囲炉裏では燃料が多く無駄になる、それから煙が立ち材木がくすぶり家がよごれる、それから眼の為などには殊によくない、同一の燃料を炭にして置くと、はるかに永持がする、一時パッと燃やして火勢をとる様な煮物の為には多少の生の燃料をつかってもいいけれど永持をさせる為には炭がよろしく、そうして経済でもあるし、第一また素薪をたくのだと、煮物をする場合に附きっきりで火を見て居なければならない、燃え過ぎてもいけないし、燃え足らなくてもいけない、少し注意を欠くと消えてしまう、そう云う場合に炭だと、一たんかけて置けば或程度まで放任して他の仕事が出来るというものである。
それから今日どこの田舎家でも行って見ればわかる事であるが家中がくすぶりきって真黒くなって居る、あれは皆多年の薪生活の為であって、風流としては多少面黒いところもあるかも知れないが一体に甚だ非文明的である。これを炭化にすればあれ程家中を黒光り煤《すす》だらけにしないでもすむのである。然し木炭の価は甚だ高い、年々高くなる一方である、今年あたりは一俵二円もする、農民生活で木炭などを買いきれたものではない。まだまだ日本の農村生活から囲炉裏を奪う事の出来ないのはわかっているが、そこで素材を使うべき場合には相当限定をして置いてあとはこの自家製木炭で調節するようには出来ないものか、この村あたりではまだこの炭化方法を実験して居るところはない様だ、これは一つ大いにはやらせて見たいものだと思って居る。
十三
百姓弥之助は今年の正月を植民地で迎えた。
元日と云っても相変らずの自炊生活の一人者に過ぎない、併し今年は塾の若い者に雑煮《ぞうに》の材料だけをこしらえさせて、それから後は例に依っての手料理で元日の朝を迎えたと云う訳だ。
昨晩の大晦日《おおみそか》には可なりの夜深しをしたものだから、朝起きたのは六時であった。炉へ火をたきつけて自在へ旧式の鉄の小鍋を下げて、粗朶《そだ》を焚いてお雑煮を煮初めた。それから半リットルばかりの清酒をお屠蘇《とそ》のかわりとして、昨日|炊《た》いて置いた飯をさらさらとかき込んでそれで元日の朝食は済んだわけだ。
至って閑散淡泊なものだが、然しこの食料品としては切り昆布とゴマメ数の子のたぐいをのぞいては、全部自分の農園で出来たものだと云う事が特長と云えば特長だろう。そこで、昨年度の弥之助の農園に於ける収穫を概算して見ると次の様な事になる。
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小麦 約十二俵
大麦 十俵
陸稲┌糯《もち》 六斗五升
└粳《うるち》 五石[#括弧は底本では、二行を括る丸括弧]
馬鈴薯 約四百貫
玉蜀黍《とうもろこし》 三斗
西瓜《すいか》 八十箇
薩摩薯《さつまいも》 五百貫
茄子《なす》 若干
胡瓜《きゅうり》 若干
梅 四斗
茶 一貫目
牛蒡《ごぼう》 五十貫
生薑《しょうが》 五貫目
大根 若干
蕎麦《そば》 三斗
菊芋 若干
里芋┌八ツ頭 三俵
└小芋 二俵[#括弧は底本では、二行を括る丸括弧]
木炭 五俵
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右の外、莢豌豆《さやえんどう》、トマト、葱《ねぎ》、隠元豆、筍《たけのこ》、鶏卵、竹木、藁《わら》――等の若干がある。
これに依って見ると、まだまだ中農までも行かない水呑程度の百姓だろう、収穫はこんなものだが、これに投じた新百姓としての固定資本や肥料、手間等の計算はここにしるさない事にする。この植民地には水田が無いから大麦と陸稲米を主食として居る、一昨日塾中に搗《つ》かせた餅もやはり全部陸稲の自家産である。これが終ってから百姓弥之助は燃え残りの榾火《ほたび》に木炭を加えて炉を直にこたつに引き直した、そうしてやぐらの上を直ちに机にしつらえて、それから元旦試筆というものにとりかかった。正月は思い切って字と画を書いてやろうと幾年ならず心がけては居たが中々果せない、今日の元旦こそはと思い切って筆墨紙の品しらべにかかった、硯《すずり》は使い古しの有合せのものを使い墨はこの暮に丸ビルで三円で買って来た香風墨と云うのをおろし筆は有合せの絵筆細筆で間に合せ、硯の水は塾生が早朝に汲み上げて呉れた井戸の若水を用い、それから棚に向って用紙の品しらべをやり出した。
棚には十年も前からの頼まれものが、うず高くたまって居る。封を切らないのが大部分そのままにしてある、筆を揮《ふる》う事は興に乗じてやりさえすれば何の事はないのだが、とりかかる迄がおっくうで無精でついつい延び延びになってるうちに七八年位は経過してしまう、全唐紙の大物もあれば絹本もあるし半切もあれば扇面も色紙も短冊もみんなごっちゃに、封を切ったのと切らないのと雑然と棚に積み上げられて居る。百姓弥之助はどこから手を附けていいかと戸惑いの形になったが、まあ大物は後まわしにして色紙短冊からとりかかろうと、それを炉辺に持ちおろした。
それから筆まかせに書と絵とを書きまくるつもりであったが、書と絵とを同時につくるのはどうも気分がそぐわない、書の方は一気呵成にやれるけれども絵の方は相当の構図を組み立てた上でないとやれない、と云ったような呼吸から今日は書だけにして置いて絵は明日のことときめた。
書は古人の名言や筆蹟のうちから求め、或は自分の旧作のうちから選んで色紙に書き、短冊には古人の名句や自作のものなどを都合三十枚ばかり書きなぐってしまった。百姓弥之助は書道の妙味はこころえて居るつもりだが筆をとってけいこした事は殆んどないから予想外出来のいいのもあるが、どうにも始末に困るのもある、然しけいこをしないだけに流儀にはまらない誰にもまねの出来ないまずさ[#「まずさ」に傍点]がある処が身上と云うものだ。
そのうちに本館の方で振鈴が鳴る、式の準備が出来たのだ、そこで塾中で屠蘇を祝って万歳を唱えた。
それから屋根裏の寝室に行って寝台の上で読書にふけった。
今年の元日は比類なき好天気のうちに送り迎えをすませて早寝をした、門外へは一歩も出ないで一日を過した。
二日目は前の如く食事が済んでから、やはり色紙短冊に向って絵を描き出した。絵は有合せの書物や雑誌を題材にしたスケッチで寅年《とらどし》にちなんだ張子《はりこ》の虎の絵が多かった。中々よく出来たのもある。例の欠食猫をモデルにしてブザマ千万な猫を描き上げてそのかたわらに次の様な賛をした。
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家猫の虎ともならであけの春
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これは現状維持の鬱懐《うっかい》がふくまれて居る様である。もう少し積極的表現のものとして、
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家猫の虎とならんやあけの春
家猫の虎となるらんあけの春
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何か時代に対する諷詠がありと云えばある様だ。
そこへ塾に居るMと云う洋画家がやって来て一石やりましょうとの事だから直ちにそれに応じて碁盤《ごばん》を陽当りのよい縁側に持ち出させそこで悠々と碁をうち出した。暮のうちは百姓弥之助が少々うたれ気味であったが今日は六番戦って五番勝つと云う好成績である。
年始状や年礼のしるしや名刺が本館の玄関のテーブルに置かれてある、今晩はこの部落の夜番に当ると云うので善平農士がそれをつとめる事にした。
十四
百姓弥之助はこの農業生活に入るにつれて服装の上で不便を感じ出した。それは弥之助の腹が中々大きくて普通の洋服では上と下が合わない、すきまから風が入るおそれがある、そうかと云って殊に日本風の私生活で背広服を朝から晩まで着づめにして居ると云うのもまずい、そこで大ていは和服を着て小倉の古袴をつけて居るが、この袴もまた腹部が出張って居る為に裾が引きずれがちで立居ふるまい殊に階子段登りなどには不便を極める。それからまたこの姿では机に向って事務をとって居た瞬間に畑へ飛び出して野菜を取って来ると云う様な場合に殊更不便を感ずるのである。そこで思いついたのが東北地方で着用して居る「もんぺ」のことである。あれを着用して見たら必ずこの不便から救われるに相違ない、そこで東京のデパートあたりを探させて見たが、出来合は見当らないようだとの事だから福島県の大島氏へ当ててその調製方を依頼したものだ。大島氏の家は福島県有数の事業家で弥之助の依頼したO氏は当主の弟さんに当る人で、白菜だけでも四百町歩から作ってその種子を全国的に供給して居る、弥之助は先年その農場に遊んで同氏の為に「菜王荘」の額面を揮毫《きごう》して上げた事がある、そこで早速同氏に当てて「モンペ」調製の依頼をすると直ちに快諾の返事が来た。
その文面に依ると「モンペ」は福島地方でも用いない事はないがその本場は寧《むし》ろ山形、秋田の方面であると云わなければならぬ、然し御希望によって当地で然るべくとりはからって上げるからとの事であった。
程なく同氏から鄭重な小包郵便を以て二着の「モンペ」が送られた、それに添えられた手紙には、当地織物会社の特産、ステーブルファイバーを以て仕立せさせた「モンペ」を送ると、モンペとしてはステーブルファイバーでは地方色の趣味が没却される点もあるが然し時節柄の意味に於て国産ステーブルファイバーを以て試製させて見た。別に地方色豊かなるものとしては会津地方から取寄せて送るという様な親切をきわめたものである。
弥之助は大島氏の好意に感謝しつつ早速この国産ステーブルファイバーを着用に及んだ。ステーブルファイバーは一見したところモンペと
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