な意向は大人の頭にも根強い勢力を占めていて、それが為にわざわざ停車場を敬遠してあとで後悔するという様な時代であった。
自転車は右のような次第であるし、人力車は村に一台か二台あるか無し、お医者さんでもなければこれに乗る者はなかった。流石《さすが》に駕籠《かご》は地を払ってしまったけれども、それでもどうかすると病人などが乗せられて行くのを見た事がある。
二十二
百姓弥之助は、ある日の事、梅を見ようと思って、多摩川の向う岸を歩き、ふと、この地に閑山《かんざん》先生が隠棲していることを思い出して、その廬《いおり》を叩いて見る気になった。
閑山先生というのは、この地方から出た老詩人で、漢詩の造詣がなかなか深いので有名な人であった。
「閑山先生のお宅は何処ですか」
と行く行く村人にたずねると、
「あゝ閑山の家ですか、閑山の家なら、これをこう行ってこう曲って――」
と教える。
それから暫らく行って、またたずねると、
「あゝ閑山の処は――」
と云っている。
「あれ/\、あすこへ行くのが、あれが閑山だあよ」
と村の子供が指して教えるのはいいが、何処へ行っても、閑山閑山と呼び捨て
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