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ドイツには植民地が無い、植民地の無いのは手足が無くて胴だけの人間と同じ事だ、国民は一致協力して軍備を充実し、生産を増加する為に、臥薪嘗胆《がしんしょうたん》をしなければならぬ。
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という事を書いて示して置くそうである。
 奪われたるものはその植民地を取り戻さんとし、持たざるものはその植民地を持たんとし、持てるものはその植民地を擁護しようとし、地上に血みどろの世界を現出して居る。それは百姓弥之助が持つ、僅かに一町歩の植民地問題とは訳が違う。
 一町歩の植民王たる弥之助が、昔から植民の文字に多大な魅惑を感じて居たのは、今の世界共通の血みどろな土地要求の叫びとは違っていた。弥之助は那須の平野だの、八ヶ岳の麓だの、また北海道の平野などを旅行した時、植民部落というものを見ると、いつも胸が躍《おど》ったのである、打ち続く処女林がある、その中を掘割の清水がたぎり流れる、掘立小屋同様の移住民の住居、労働婦を兼ねたお神さんの肉体、ああいう原始味が今日でもどの位、弥之助を魅惑しているか解らない、そこには張り切った労働を基調とする生々たる平和がある、健康の躍動から来たるところの、溌剌《はつらつ》たる肉体の自由がある、弥之助は都会のどんな大廈《たいか》高楼にも魅惑を感じないが、この原始的生活の植民情味というものには、渾身の魅惑を感じない訳には行かない。弥之助の最初の理想では植民は侵略ではない、侵略と全く違った天業である、この点では清教徒の北米移住を少年時代に読んだ文字のままが先入主となって、人間の清新にして真正なる自由は植民の天地にのみ求め得られるような夢が今だに去らない。
 従って百姓弥之助は植民は即ち宗教だという先入主から離れるわけに行かぬ、凡《およ》そ侵略とは根本から種苗を異にしたものが即ち植民である。
 北米と南米とは、どうしてああまで開発の相違があるか、地味に於て物資に於て寧ろ北来に優る南米が、何故に文化に遅るること今日の如きか――という問題に答えたある人の答えを記臆している。
 北米を開いたものは信仰の人であった、が、不幸にして南米に着手した人は掠奪の人であった、北米には自由を求めんが為に、信念の鍬を打ち込んだ人が渡ったが、南米には富と物資を覘う我利我利が走《は》せつけた、北米に植民した人はその土地を己《おの》れの土地として、神の土地として愛したが、南米に赴く人は、慾の対象として、物資の乱掘場として、跡は野となれという人によって先発せられたのである――その結果が今日に於て知るべきである云々《うんぬん》。併し、今日では、もはや、地球上のいずれにも自由と信仰を誘うほどの処女地は窮尽してしまったと思われる。

       二十六

 百姓弥之助は荻窪で立臼《たちうす》と杵《きね》を一組買い求めた。
 臼は尺五寸位の欅《けやき》、極小さなもので二升位しか搗《つ》けない、新品だが少々ひびが入っている、杵をつけて六円で買い求めた。
 弥之助は、植民地で、地殻搗《じがらつ》きをはじめたいと思っている、どうしても一通り農業を原始的に戻してやって見たい、長い杵を足で、ジタンバタンと臼搗きをする、あれをやって見たいと、その出物を近村に求めたが容易に揃わない、やっと杵だけは相当のものを入手したが、臼が容易に見つからない、コンクリの近頃出来のものならば、安くてあるが、あれを使用する気にはならない、やる以上は、古典的に松か欅、そうで無ければ石の臼が欲しい。
 新規に造らせると、二尺未満のもので二十円から二十五六円もする。併し、まあ、何とかして地殻設備は完全にするつもりだ、一たい農業も、自家で取り上げた穀を精米所へやって搗かせるのでは徹底しない、砂を入れて搗くとか、ゴムロールは胚芽の精分をすっかり磨りつぶして死米としてしまうとか、そういう事は別として、搗き上げるまで、どうしても自家でやらなければ、九仭《きゅうじん》の功ということになり兼ねないと思われる。今時、電気と機械の世の中に、じったんばったんと、原始的労力を加えるなどは、福沢流に体育化しない限り、不経済の極《きわみ》と云わなければならないが、ああしていると全く安心の出来る食料が得られるし、その搗き砕けや糠《ぬか》は、家畜の飼料その他に有力な利用となる。
 すべて機械文明というものは、劇薬的のもので、人目を驚かす偉力を発揮して今日に至っているけれども、これを永久に平均した人体或いは団体健康の上から見ると大きなる疑問がある。すべての仕事を一度原始的に引き戻して、人間自然の発祥から比較検討し直して見ることの予習をやって見る必要は無いか。
 人間が機械を駆使して自然を征服した、今度は機械が人間を駆使してこれを征服するの時代となるのではないか、どうかそうでない様にしたい、人間と
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