い、弥之助は叱《しか》ったり、嚇《おど》したり物を投げたりして見ても中々しずまらない、二階の床板をはずして、鼠の侵入路をしらべて、防禦策を講じたが中々効がない、そうしているうちにこの仔猫が来たからこいつを一つ利用してやろうと天井の一角を押し破って、夜中にその角から天井の裏へ猫を押し上げて置いた、そうして、しばらくすると猫が下りたがってしきりに哀泣する、彼等の力ではそこから畳の上まで降りて来る事が出来ない、降り様としては躊躇《ちゅうちょ》してもの悲しい泣声をたてる、しばらくして雌の方はどうやら天井裏をぬけ出して家の裏をめぐって戻って来たが雄の方はやっとなげしまで降りてそこでうろうろしながらしきりに哀泣をつづけて居る、よってようやく取りおろしてやったが、覿面《てきめん》なものでその夜はさしもに荒れた鼠がガタとも云わない。実に餅屋は餅屋である。我々大の男が如何に猛威をふるって怒罵叱責してもその威力はこの仔猫が一分間の悲鳴哀泣に及ばない、ものには各々《おのおの》天分があるものだと云う事がつくづく思わせられる、それから以後、別々に母屋と寮との間に毎晩はなして寝かせて、鼠族鎮台の役を勤めさせることにした。
斯《か》くてある中、一方に於ていよいよ野良猫の元兇退治の時が来た。
或る寒い晩のこと、この野良猫が書庫に侵入している処を、それと知らずに弥之助が出入口を閉めきってしまった。退路を断たれた野良猫は周章|狼狽《ろうばい》逃げまわる、よし心得たりと弥之助は徐《おもむ》ろにそれをとっつかまえる手段を講じ、それから笊《ざる》を楯にステッキを獲物にこの野良猫を相手に大格闘が始まるのである。相手は年功を経て野獣化したる家畜が絶体絶命の死物狂い、書庫と廊下と応接の間と寝室と食堂を追いつ換わしつ、その猛烈さ加減は確かに岩見重太郎の狒々《ひひ》退治以上の活劇であったが、さしもの猛獣も運の尽き、とうとう書斎の障子の細目の桟《さん》を半分くぐったが、後半が出ない、その後足を弥之助はむずと捕えたが、さて縛《しば》るべき何物も有り合さない。止むを得ず片手を以て自分の帯をほどいてその足をしかと柱へ結びつけて置いて、それから青年を呼んで処分にかかったが、障子にはさまれながら必死の狂暴ぶりには手の下し様がない。細引を持って来て遠廻しにゆわえて見たが恐しいもので麻の細引では幾本縛ってもがりがり噛み切ってしまう。止むを得ず針金を持って来て、やっとの事で結えた。
そこへ例の欠食二つがやって来た。いや改めてこの場へやって来たのではない、最初から此処に居合せて侵人者のあったのを主人よりは先きに感づいて炬燵《こたつ》の傍《かたわら》でさっと身の毛をよだてて一方の隅を見込んだ形が今思い返して見ると佐賀の鍋島の奥女中連が怪猫の侵入に怯《おび》えた気分がある。二つの欠食をつかまえて、試しに怪猫の前へ突きつけて見ると、キジの方は遠く離れて縮み上って泡を吹いて前足を揃え毛を逆立てて怖ろしい表情をしたが、三毛の方は平ちゃらで、馴《な》れ馴れしく野良猫の足もとまで進んで行く、ああ危ない、噛み殺されはしないかと心配したが、野良猫は少しも危害を加えない。どちらも三毛同志である。野良猫は無宿者のくせに肥り返って毛並もつやつやしい。そこでこれは親子ではあるまいかと思った程である。全然出所が別だから、親子の血を引く筈は無いが、見ように依っては浪花節《なにわぶし》の何処かにありそうな、親子生別れの場面が展開された。
それから野良の元兇は農舎へ引摺《ひきず》って行ってつないで置き、さて全く改心の見込無きものとして断然死刑に処してしまうか、或いは相当期間|禁錮《きんこ》して、再び真猫に帰り得る見込有りや否《いな》やを試験するか、何にしても今日迄侵入と掠奪《りゃくだつ》に依りこの通り肥り返っている代物《しろもの》だから多少の窮命を与えたからとて早急に生命に異状はあるまい。しばらくこの農舎につないで鼠の番をさせて置く――そうして弥之助はまた東京へ出たが、二日ばかりして帰って見ると野良猫は昨晩死んでしまったと云うことである。二晩や三晩で参る筈は無い屈強さと見ていたのが、寒さにこごえたか、針金の緊縛で心臓でも痛めたか、脆《もろ》くも最期を遂げてしまった。
思えば猫の一生もまた多事と云わなければならぬ。
二十
百姓弥之助は或日の事、植民地を出て多摩川の沿岸の方へと歩いて行って見た。昔に変るいちじるしいものは水道と水田であった。
水道と云うのは多摩川の本流をここで分けて一方を玉川上水として、江戸以来東京へ引き、一方はそのまま東京湾へ落したものだが、昔はその分水も豊富であったが、東京の拡大するにつれ、今はもう殆《ほとん》ど全部を上水へ取入れてしまって、六郷の方へは殆ど一滴も落さないと云うしぼり
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