は呑み込んで糸だけを食い切って逸走してしまっている。
 或朝の事、この野良猫の出現をつい池の向う島の祠《ほこら》の中で見出した。可なり毛色がよく肥りきった三毛猫であるが、用心深い様子で絶えずキョトキョトしながら寝込んで居る、それをこちらから遠眼鏡で見ると面中《かおじゅう》がきずだらけで有馬だの鍋島だのの猫騒動のヒーローを思い出させるような物すごい形相《ぎょうそう》になっている。この一疋《いっぴき》の野猫に散々手こずらされては居たが、それでもこの野良者の存在は鼠よけの為には予期しない効果を現わしているらしかった。御承知の通り植民地の一軒家だから、家ねずみ野ねずみも四方から押し寄せてここを巣にしない限りはない、それを一疋の野猫ががんばって居る為に幾分か魔避けの為にはなったと思う。
 それからしばらくして本村のS氏から仔猫を三疋もらった。二三日すると一疋はポックリ死んでしまった。さてこれを育て上げるのが一骨《ひとほね》だ。塾生の青年共にまかせて置いた日には前例がある。幸、今度は塾主としての弥之助も少しはこの植民地に落着くことが出来るのだから、引きつづいて少々のめんどうを見てやろうと思っていた。三疋のうち一疋は雌《めす》で二疋が雄である。雌は一疋はなれ雄同志二つがよく一緒に遊び歩いて来た。ある日寮の一室を掃除すると積み重ねた障子の隅からまだ眼の開かない鼠の子が十疋も出た。それを三疋の仔猫を持って来て食わせるとおどろくべき事は、まだ乳ばなれをして間もない粥《かゆ》でなければ食べられない仔猫が、その鼠の子にかぶり付いてうなりながら咬《くわ》えあるく形相と云うものは全く猛獣性そのものである、ねずみをあてがって初めて猫と云うものの猛獣としての本性がありありと解る。
 そうこうしているうちに雄猫の一疋がポックリと死んでしまった。死の原因はよくわからない、後はミケとトラとの二ツになったがこの度はこれが相棒でむつまじく遊びあるいている。この二疋だけは殺し度くないものだと留守の間はよく青年に云いつけ、帰って来れば弥之助手ずから食物を当てがって愛撫《あいぶ》をこころみて居ると、さすがによくなずいて弥之助の書斎を離れない。夜は二階へつれて行ってふとんの裾へ寝かしてやる、中へ入れるとまだ爪をかくす事を知らないものだから、処きらわずこちらを引っかいたりまたはなめまわしたり食い付いたりするから、掛布団《かけぶとん》の間へ入れて寝かしてやる、無精によくねる、いくら寝ても飽きたと云う事を云わない、夜昼寝つづけに寝る、たたき起してほうり出すといやな顔もせず飛びまわったりじゃれついたりする。ことに夕方が一番はしゃぐ様だ、猫のじゃれるのとちょっかいを見て居ると如何にも可笑《おか》しい、これは本能的の躍動だが、かくれん坊するのを見て居るとどうも少し意識的にやる様だ、一つが障子《しょうじ》の外へ飛び出してじゃれて居ると一つがこちらの柱の陰にかくれて待ちかまえて居る、そうすると前に飛び出したのがまた戻って来る、その出合頭《であいがしら》にバーッと云う様な様子で左足のチョッカイでおどりかかるところなどは人間の子供の遊びと少しもかわらない。
 食事の時などは膳へたかったり、うろつきまわってうるさい、追い飛ばしたってどうにもならない、そう云う時は断然|桶伏《おけぶせ》の刑に処するのである。桶伏と云うのは二ツをまとめて有合せの笊《ざる》をかぶせその上へ重しの本をのせて置く、最初のうちはザルをがりがりかいたり敷物をむしったりしてミューミュー鳴くが、暫くすると観念して静まってしまう。やがてこっちが食事がすんで解放してやると、大てい二ツが重なりあってチョコナンとして居る。
 猫にあてがう食事としてはこちらの飯を分けてけずり節を少しかけてやる程度だが、魚類があれば少し分けてやる、生がかったメザシよりは干物の方を好んで食う、またあんパンなんどをつまんでやると飯よりはかえってよろこんで食う、いまの処|肴《さかな》よりはかえってパンが好きらしい。あんパンもあんの部分だけは食わない、ビスケットなどは噛んでやればよろこんで食べる、この二ツのうち、三毛の雌の方が丈夫でトラの方が少し痺弱《ひよわ》いようだ、組打をしてもトラの方が押され気味で、いつもねわざに受けて居る。或晩このトラが、炬燵《こたつ》へ這《はい》って来て如何にも元気がない、やっと炬燵の上へ這い上ったところを見るとぺしゃんこになって、一枚と云いたいほど平べったくなってしまって居る。そこで驚いて牛乳の残りを飲ませなどして居ると、やがて元気は恢復したが三毛にくらべると影がうすい様だ――併し程経てこれは反対の現象を呈して来た。
 塾の成進寮の二階に鼠が横行して居る。白昼もばたばた横行している。夜になると家鳴震動して土を落しごみをおとす。どうも寝られな
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