るのであって、優良種を自家で孵化《ふか》するのは方法から云っても手間から云っても六つかしいとされているが、ただ自家用産卵をさせる為ならば、地鶏《じどり》というのがいいそうである、これは鶏としての体躯も小さいし、卵も小ぶりではあるけれど、これなら、非常に容易《たやす》く、自分の家で孵化することが出来るそうである、今度は、その種類を少しやって見たいと思っている。
百姓弥之助は有畜農業を是非する訳ではないが、新百姓であり、かたがた動物性の方は成るべく避けて、植物性農業を主とする方針であった。
そこでこの辺では副業というよりは寧ろ主業とする所の養蚕は、最初から全くやらない方針で、桑園の桑をすっかり抜き取ってしまった。そうしてその後へはすべて作《さく》を作る方針にして居る。これは此処《ここ》何年というもの、ずっと生糸の値下りから各町村でも、なるべく桑園を作畑に改めさせ、多少の奨励金を出して居るのと吻合《ふんごう》するところがある。養豚の如きもこれに触れないつもりであったのである。将来共に自家用程度の有畜はやるにしても、これに主力を置くような事はしたくないと思っている。
三十
最近の農業は、農業の商業化と云ったような大勢になって居る。
昔は金肥は殆どつかわず、機械力も極めて単純なもののみであったが、今日はそれとは全く違って居る。
即ち成る可《べ》く多く肥料に金をかけ、成る可く多くの収穫を上げようとする行き方になって居る、資本を多く投入して収益を多く見ようという行き方になって居る。つまり農業の資本主義化、商業化である。と云うと小農中の小農制たる日本の、どこに資本の余裕があるかと反問されるかも知れぬが、個々について云うのでなく、全般に於てそうなのである。
ところでこれを以前の農業の農業でやって行けないものかどうか、昔の農家は今の農家のように、金肥をつかわなかった、金を出して肥料を買うという事は甚だすくなかった、それでも兎に角、農業はやって行けたのである、そうして相当着実でもあり余裕もある中堅農家が相当に存在し得たのである、一体農業というものにだけは、すべてが自給自足出来るようになって居るのが特長では無いか、廃物というものは一つもなく、強《し》いて外来物を呼び入れなくとも、行けば行ける性質のものではないか、改良と云い進歩というのは、現在あるものを科学化し或は能率化して行けば、それでよろしいのでは無いか、例えば下肥《しもごえ》の如きも、これを相当科学化して乾燥した固形物とするか、或は粉未として、感じにも取扱いにも効能にも相当の増進率を持たせる、それから蒔物《まきもの》の調節、麦を蒔いたあとへ陸稲とか、そのあとへ何とか、然るべく排列の適否を研究し、金を懸けないで頭と労力を上手に働かして、成功を見るようには出来ないものか。
弥之助はこの新百姓に取り懸かる時、この事を一農者に尋ねて見るとその人は、言下にこれを斥《しりぞ》けて言った。
「それは駄目です、今時の百姓はうんと肥料に金を懸けて、うんと収穫をあげるようにしなければ、やって行けないです」
「でも昔の農業は、そう金を懸けずとも立派にやって行けたではないか」
「そりゃあ昔と今では違います、昔はせいぜい一反歩二石も取れれば上々だったのが、今は五石取り十石取りなどという事になって居るです、昔とはてんであがりが違います」
「でも同じ土地で同じ人間の力で、昔は金をかけないでやって行けたのだから、今もそれで、やればやれない筈はないではないか」
「肥料をやらなければ、第一土地が痩《や》せてしまって収穫がいよいよ低下するばかりです、どうしても肥料に金を懸けなければ駄目です」
「肥料をやらないで野育ちにという訳では無い、成可《なるべ》く金肥をつかわないでやれないか如何《どう》かという問題である、出来るだけの肥料は自給して、金肥をつかわない方針でやって行く方法は無いかという問題だ」
「そうですね、それは無い事もないです、肥料を多く使わず土地を痩せかさないで、相当の収穫を見て行こうというには、それはなる可く土地を休養させるという方法をとる外はないでしょう」
「そこです、その土地を酷使せず適度の休養を与えて、そのかわり金肥を節約して、農業がやって行けないものかどうか、昔の農業はそれであったのでしょう」
「そうすれば、士地と肥料の調節は出来るとして、問題はその土地ですね、今の農家は適度の休養をさせる程、土地の余裕を持ちません、その点は昔のように、人口が少く比較的に土地が豊富であった時代とは違いますからね」
弥之助は心|密《ひそ》かに考えて居る、どうか自分は一つ、その農業の商業化でなく、農業の純農業の立場を行って見度《みた》い、つまり「土地を酷使せず、相当の休養はさせるが、美食は与えない」とい
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